2025/03/27 有報の総会前開示、当面は「3週間以上前」にこだわらず(会員限定)

金融庁は2025年3月18日、「有価証券報告書の定時株主総会前の開示に向けた環境整備に関する連絡協議会」(以下、連絡協議会)の第2回目の会合を開催している。連絡協議会は有価証券報告書の「総会前開示に係る課題及び具体的な施策について実務的な検討」を行うため、2024年12月17日に設置された会議体であり、12月20日に開催された第1回会合で取りまとめられた総会前開示に関する論点を踏まえ、第2回会合では事務局説明資料(42ページ)の中で「総会前開示を実現するための当面の方策(案)」(以下、当面の方策案)が提示された。今後は当面の方策案に沿って各種の施策が講じられていくことになる。

当面の方策案では、下表のとおり総会前開示実現に向け①~④の流れが示されている。また、「総会3週間以上前が望ましい」としつつ、まずは「第一歩として、株主総会より前に有報が開示される慣行の熟成」を進めることが提言されている。この提言を踏まえると、下表中の②「上場会社に対し、総会前開示の実施を要請」についても、当面は「3週間以上前」にこだわらず、たとえ数日前であっても実施が求められることになろう。

1 上場会社と連携し、総会前開示の取組みを支援 a) 実例の創出・実務上の課題解決のため、勉強会等を実施
b)実例を創出しつつ、一体開示用のフォーマットを整備
c)関係省庁合同で相談窓口を設置
2 上場会社に対し、総会前開示の実施を要請
3 各種情報を集約したウェブサイトを作成し、業界団体とも連携しつつ、周知・啓発を実施 a)総会前開示・一体開示についての制度・運用面の整理を総覧するとともに、解釈を明確化
b)総会前開示の取組の好事例を公表
c)有報を総会2週間以上前に開示する予定の会社を事前公表
d)総会より前に有報を開示した会社を事後的に公表
4 総会前開示・一体開示を促進する取組の検討 総会前開示の重要性をソフトローで明確化・要請
一体開示をより容易にするための施策

また、「総会前開示・一体開示」がワンセットの用語として使われている点も注目される(上表の赤字部分)。有報の総会前開示だけでは上場会社にとって負担にしかならないとの声がある中、有報と事業報告の一体開示を抱き合わせることによって「全体としてはコスト削減効果の方が高くなる」(22ページの⑧「株主名簿確定のコストが複数回かかる」参照)ことが強調されている。会社法上、業報告の開示期限は定時株主総会の3週間前までとされているため、一体開示は定時株主総会の3週間以上前のタイミングで可能となる。当面の方策案で「総会3週間以上前が望ましい」とされている理由もここにあり、金融庁にとっては「3週間以上前」がゴールとなろう。

もっとも、現状で一体開示を実施している上場会社は存在しない。その理由として、“横並び意識”も手伝って積極的に一体開示に取り組むインセンティブが限定的なこと、また、開示内容を共通化する「一体的開示の進行」によって一体開示のメリットが縮小したことが挙げられる(2021年1月22日のニュース「“ツール”は出揃うも、事業報告と有報の一体開示に企業が踏み切れない理由」参照)。今後、金融庁がどのような「一体開示をより容易にするための施策」(上表の➃のb参照)を打ち出すのか、注目される。

このほか連絡協議会では、総会前開示に直結する施策として「基準日の変更」についても議論し、以下の「取組の推進に向けた方策(案)」が示されている(27ページ)。


基準日 : その日において株主名簿に名前が載っていれば、株主総会での議決権行使や配当を受ける権利を享受できる日のこと。定時株主総会の基準日を定款に記載しなければ、毎年、基準日を公告しなければならない。その手間を避けるために、定款に基準日を記載するのが通常である。

1 制度面での制約がないことを整理・周知
2 定款変更議案に対する議決権行使の考え方を整理・周知
3 実務上の課題の把握・解決策の検討、基準日変更の支援

2025/03/26 DICが株主に対する「キャッシュ・アロケーション」の説明不足を問われている理由

キャッシュフロー経営の重要性が説かれ始めてから久しい。最近では資金の使い道を「キャピタル・アロケーション」や「キャッシュ・アロケーション」と呼び(以下、「キャッシュ・アロケーション」で統一)、これを投資家に説明する上場会社が増えてきた。投資家にキャッシュ・アロケーションの方針を説得的に説明できなければ、「資金を眠らせておくくらいなら株主に返せ」とばかりに、投資家から配当や自社株買いを強く求められることになる。


キャピタル・アロケーション : 調達した資金、事業活動を通じて得た資金をどこに投資するか、どのように使うかを判断すること

株主に対するキャッシュ・アロケーションの説明が不足しているとしてアクティビストから糾弾されているのが、印刷インキで世界トップのシェアを誇る化学メーカーDIC(東証プライム)だ。

DICは2024年2月に下記のキャッシュ・アロケーション方針を示している。

76537

一見しただけでは、投資家がどこに「説明が足りない」との不満を感じているのかは分からない。それを理解する鍵となるのが、・・・

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2025/03/26 DICが株主に対する「キャッシュ・アロケーション」の説明不足を問われている理由(会員限定)

キャッシュフロー経営の重要性が説かれ始めてから久しい。最近では資金の使い道を「キャピタル・アロケーション」や「キャッシュ・アロケーション」と呼び(以下、「キャッシュ・アロケーション」で統一)、これを投資家に説明する上場会社が増えてきた。投資家にキャッシュ・アロケーションの方針を説得的に説明できなければ、「資金を眠らせておくくらいなら株主に返せ」とばかりに、投資家から配当や自社株買いを強く求められることになる。


キャピタル・アロケーション : 調達した資金、事業活動を通じて得た資金をどこに投資するか、どのように使うかを判断すること

株主に対するキャッシュ・アロケーションの説明が不足しているとしてアクティビストから糾弾されているのが、印刷インキで世界トップのシェアを誇る化学メーカーDIC(東証プライム)だ。

DICは2024年2月に下記のキャッシュ・アロケーション方針を示している。

76537

一見しただけでは、投資家がどこに「説明が足りない」との不満を感じているのかは分からない。それを理解する鍵となるのが、同社が千葉県佐倉市に所有するDIC川村記念美術館の売却騒動だ。新聞等で報道されているとおり、DICは同美術館の閉館を決定しており、同美術館が所蔵する美術品の行方に注目が集まっている。同美術館には754点の美術作品が所蔵され、そのうち384点をDICが保有している。そのコレクションはレンブラント「広つば帽をかぶった男」(1635年)、モネ「睡蓮」(1907年)、ピカソ「肘掛椅子に座る女」(1927年)、シャガール「赤い太陽」(1949年)など幅広く、なかでもマーク・ロスコの「シーグラム壁画」7点をはじめとする戦後アメリカ美術のコレクションは評価が高い。これらの作品の2024年6月末時点の「簿価」は合計で112億円となっているが、注目すべきはその「時価」だ。時価は簿価をはるかに上回る1,000~2,600億円程度と見込まれている(出典はこちらの1ページ目のISSの説明)。つまり、美術品の含み益は少なくとも900億円程度あり、うまく売却できれば2,000億円を超える可能性がある。DICの株式の時価総額は3,000億円程度であるため、DICの株式時価総額の相当部分を美術品の時価総額が占めていることになる(もっとも、DICの PBRは過去5年以上にわたって1倍以下で推移しており、美術品の時価総額は株価にはほとんど反映されていないものと思われる)。当然ながら美術品の行方は投資家の一大関心事となっているが、DICのキャッシュ・アロケーション方針には美術品の売却によるキャッシュインについての明確な記述がなく、また美術館の閉館決定後も同方針は更新されていないため、上述のとおり投資家が不満を抱くことになった。


PBR : Price Book-value Ratio=株価純資産倍率(株価÷1株当たり株主資本)。株価が1株当たり純資産(BPS:Book value Per Share)の何倍まで買われているか(=1株当たり純資産の何倍の値段が付いているか)を指す。PBRが1.0を大幅に下回る場合、投資家が企業の将来性に疑問を持っていたり、減損リスクのように潜在的な資産の含み損が多額にのぼる可能性が株価に織り込まれていたりすることを示唆する。

そもそもDICが美術館を閉館することになったのは、業績が不調のDICに対してアクティビストのOasis Management Company Ltd.(以下、オアシス)が美術館の閉館や美術品の売却を求めたためとされている。オアシスから「美術品を売却して本業に集中せよ」と要求されたDICは、2024年4月に設立した社外取締役4名全員をメンバーとする「価値共創委員会」で美術館の運営の在り方について議論を開始した。その価値共創委員会が出した結論は以下のとおり。

DICの価値共創委員会が出した結論
(a)当社が美術館を運営するためには、美術館の存在価値や目的、理念を明確化する必要があり、特に株主に対する説明責任が求められること
(b)今後の美術館運営に関しては、i.「現状維持」、ii.規模を縮小して移転する「ダウンサイズ&リロケーション」、iii.「美術館運営の中止」、といった選択肢が考えられること
(c)現在の当社業績、美術館と当社経営・事業との関係、投資家からの意見等を踏まえると、現状のまま美術館を維持、運営することは難しいと考えられ、また運営コストを考慮すると、現実的に詳細検討すべき案は東京への移転を想定した「ダウンサイズ&リロケーション」もしくは「美術館運営の中止」を前提とした2つの案となること

価値共創委員会の助言を受け、DICの取締役会は、DICが美術館運営を継続する意義(同社の主力製品である顔料は絵画に、インキは出版に長く用いられてきた材料であり、同社は芸術と文化への貢献とともに発展してきた等)を認めつつも、2024年8月月27日に以下の中間決定を公表した(同社のリリースはこちら)。

美術館に関するDICの中間決定
(a)美術館運営の効率化のため、「ダウンサイズ&リロケーション」を具体的なオプションとして検討し、2024年12月までに結論付けること
(b)上記を基本的な方針としつつ、「ダウンサイズ&リロケーション」の実現性、ブランド価値向上の有効性、作品売却による経済価値等を総合的に勘案し、美術館運営の中止の可能性も排除せず、詳細検討を行うこと
(c)2024年内に今後の美術館運営について決定した後、速やかに決定内容を実行するため、2025年1月下旬から現美術館を休館すること
(d)美術館に関する情報開示と透明性の向上のため、当社が保有する主要美術品のリストについて、本資料の別紙のとおり開示すること

(c)の美術館休館の決定は地元(千葉県佐倉市)住民や美術ファンを驚かせ、佐倉市での存続を求め5万人超の署名が集まったほどだ(佐倉市役所のサイトはこちら)。しかし、署名により休館の方針が覆ることはなく、DIC取締役会は2024年12月26日に以下の最終決定を下した(同社のリリースはこちら)。

美術館に関するDICの最終決定
(a)当社における美術館運営を社会的価値と経済的価値の両面から考えた場合、適切な規模と場所で美術館運営を継続することが、ブランド価値向上による事業の発展に資することのみならず、ステークホルダーひいては社会全体に対する好ましい貢献活動であると考えるに至ったことから、適切な移転候補先を見つけることを前提に「ダウンサイズ&リロケーション」を最終方針として実行する
(b)上記美術館運営の「ダウンサイズ&リロケーション」は、以下の定義とする
・ダウンサイズの規模としては、当社のアイデンティティを象徴する作品群の再定義に伴い、当社保有作品数を1/4程度に縮小する
・リロケーション先は、多くのステークホルダーにとってアクセスが容易な東京都内において美術品を一般公開できる場所とする
・運営方法としては、当社単独ではなく公益性が高い団体との連携を前提とする
・移転に係る費用については、必要最小限な数億円規模に抑えるとともに、移転後の運営収支については、来館者数の増加と運営コスト低減などにより、現美術館の運営収支から大きく改善させる
(c)「ダウンサイズ&リロケーション」を具体的に実行するために、複数の移転先を検討した結果、上記定義に該当する特定の団体の施設を移転候補先として交渉を進め、2025年3月末までの最終合意と正式発表を目指す
(d)上記と並行し、美術品の売却に向けて、売却対象とする作品とその売却実行プロセスについて検討を進める
(e)佐倉市の現美術館については、移転の有無に関わらず2025年3月31日を最終営業日として2025年4月1日から休館するが、休館後の地域住民による庭園や周辺施設の継続的利用等の可能性について、佐倉市と誠意をもって協議していく

もっとも、現時点で特定の美術品の売却が確定しているわけではない。また、美術館の閉館や会社が保有する美術品の売却は業務執行の範疇に収まる話であり、そもそも株主総会の決議は必要とされていない。そのため、明日(2025年3月27日)開催されるDICの定時株主総会に、美術館や美術品に関する議案は何ら提出されていない。しかし、現会長である猪野薫氏の再任議案に対しては、議決権行使助言会社最大手のISSが反対推奨を行っている。その理由としてISSは、現会長の猪野薫氏が社長であった期間(2018年1月から2023年12月まで)の業績が低迷していたことに加え、DICが保有する美術品の市場価額を1,000~2,600億円と仮定したうえで、将来的に美術品の売却から得られるキャッシュの使途が不明確であり、株主に対するキャッシュ・アロケーションの説明が不足していることを挙げている。

これに対しDICは、2025年3月14日に以下の反論を行っている(反論のリリースはこちら)。

ISSの反対推奨理由に対するDICの反論
ISS社は当社が保有する美術品の時価について、1,000~2,600億円との推測を記載していますが、その根拠については「様々な情報筋」と述べるのみで明確に示されておりません。当社では美術品の価値を把握した上で取締役会における美術館運営見直しの議論を進めておりますが、その特殊な市場性や不確実性を鑑みて、保有する美術品全体の価値として一定の金額を示すことは適切でないと判断して開示をしておりません。しかし、株主の皆様をはじめとするステークホルダーに向けて、現時点で想定される美術館運営の見直しに伴う定量的な情報を開示することは必要であると考え、当社保有の美術品数を1/4程度に縮小することとし、その対象から外れる美術品の売却に着手し、2025年度中に少なくとも100億円程度のキャッシュインを目指す方針を発表しました。また、美術品売却によって見込まれるキャッシュインを含めて資金をどのように配分するかは、2024年2月に発表したキャッシュ・アロケーション方針に従って決定されることになり、株主還元にも充当してまいります。

また、反論に先立ちDICは、2025年3月12日付けのリリースで、上記最終決定の(b)で「多くのステークホルダーにとってアクセスが容易な東京都内において美術品を一般公開できる場所」としていた所有絵画の移転先(所有絵画の売却ではなく、保管場所の移転となる)が国際文化会館(東京都港区六本木)になったことを明らかにしている。

このDICの決定に異議を唱えたのがオアシスだ。オアシスは傘下のファンドを通じてDICの株式を11.6%保有しており、業績が低迷するDICが創業家(川村家)に忖度した経営を行っているとして、不透明な関連当事者取引等を追及するキャンペーンを行っている。さらにオアシスはその延長上で、DICが一部の所蔵美術品の移転先を国際文化会館にした経緯も不透明であると指摘している。その理由は、川村氏と国際文化会館の距離の近さ(川村氏が設立メンバーとなって設立されたAsia Society Japanは国際文化会館施設内に所在し、国際文化会館と極めて関係性が深い団体である)にある。オアシスはDICの一連の行動について、「株主に帰属する財産を取り上げ、当該財産及び/又はその支配権を実質的に川村喜久氏、そして川村氏に近しい人々や組織の影響下に置こうとする試みである」と厳しく指摘している。

上述のとおり、オアシスはDICの美術館運営には反対の立場をとっている。また、オアシスはDICに対し、美術品を小出しに売却()するのではなく、「企業価値を最大化する売却方法は全ての美術品を一度に売却するコレクションセールないしはコレクションセールに近い形である可能性が高い」として一括売却を求めていた(オアシスのプレゼン資料の5ページ目を参照)。つまり、オアシスの目標は「美術品の現金化」を起点とした配当の増額等により、DIC株を高値売却することにあると推測される。美術館の休館によりこの目標は実現に近付いたように見えたが、美術品の現金化はせいぜい100億円程度にとどまることが分かった。美術館所蔵の美術品のうち最も価値のある作品群の売却は実現せず、単にそれらの作品群の収蔵場所が千葉県佐倉市から東京都港区六本木に移動するだけとなり、オアシスにとっての目標達成が遠のいたことになる。

* 実際、DICは2013年12月期にリストラ関連減損損失25億円等を計上し赤字転落が危惧された際に、美術館が保有するバーネット・ニューマン作の絵画「アンナの光」を売却して103億円の美術品売却益を計上することで黒字を維持している。

「業績が芳しくない上場会社が資金を美術品という形で眠らせておくべきではない」というオアシスの主張は、経済合理性の観点からは正解だろう。もちろん、世の中には「芸術の発展のためにはメディチ家のようなスポンサーが必要」といった声もあるが、何も上場会社がその役割を果たす必要はない。DICの創業家である川村家が財団等でそれを実現すればよいだけの話である。また、オアシスの主張に対しては、「企業が文化的・社会的価値を追求することがブランディングにつながり、企業の経済価値が高まる」という反論もあろう。この点、DICも、「アートが、ビジネスと公益の双方にインパクトを生み出す新たな協業の形を国際社会に示し、貢献をしていきます。」と説明している。しかし、上場会社である以上、仮に文化的・社会的価値を追求するとしても、規模や利益に応じた適正額の範囲内に限られるべきだ。つまり、DICが直面している問題の本質は「キャッシュ・アロケーションの説明不足」ではなく、「業績が低調な上場会社が業績好調時と同様に文化的・社会的価値を追求し続けることの是非と適正な規模感」だと言える。DICの本業が好調であれば、アクティビストにつけ入れられる水準まで株価が低下することもなく、投資家は総じて文化事業を好意的に受け止め、今回のような問題も起きなかったかもしれない。


メディチ家 : 14世紀から15世紀にかけて栄華を誇ったフィレンツェ(イタリア)の名家。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどルネサンス期を代表する芸術家を数多く支援したことで知られる。

DICの定時株主総会は明日(2025年3月27日)に開催される。株主は取締役会長の猪野薫氏の再任議案の賛否を通じて間接的に美術館騒動への意思表示も行う恰好となる。本件については、注目される議決権行使結果とともに続報する。

2025/03/25 【2025年2月の課題】従業員エンゲージメント 解答(会員限定)

解答者        
WTW シニアディレクター
Employee Experience(EX) 統括
平本 宏幸

従業員エンゲージメントに関する投資家の質問例と取締役会に求められる対応

人的資本と企業価値向上との関連性を示す代表的な非財務指標が「従業員エンゲージメント」です。近年は、投資家との対話の際に、従業員エンゲージメントに関する質問を受けるケースが増えています。そこで以下、従業員エンゲージメントに関して想定される投資家からの質問と、取締役会に求められる対応等について解説します。


従業員エンゲージメント : 「企業が目指す姿や方向性を、従業員が理解・共感し、その達成に向けて自発的に貢献しようという意識を持っていること」を指し、組織の目指すゴールに対する「自発的貢献意欲」とも言い換えることができる。従業員エンゲージメントは「従業員満足度」と混同されがちだが、実は両者は同義ではない。所属する組織、職場の状況、上司、自身の仕事などについて、「従業員が自身の物差し」で評価をするのが従業員満足度であるのに対して、「会社が目指す方向性や姿を物差し」として、それらについての自分自身の理解度、共感度、行動意欲を評価するのが従業員エンゲージメントとされる。(文責:上場会社役員ガバナンスフォーラム)

想定される質問(1)
「従業員エンゲージメントをどのように測定しているのか。それは企業価値向上とどのように関連しているのか。」

従業員エンゲージメントには様々な概念や調査方法がありますが、投資家の関心は従業員エンゲージメントがいかに企業価値向上に貢献しているかという一点にあります。したがって、従業員エンゲージメントを測定する際には、企業業績との明確な関連性がある指標(例えば仕事への熱意)を用いることが重要になります。取締役会は、客観性が検証された適切な指標が用いられているかとともに、それが対外的に説明可能な状態となっているかを確認しておく必要があります。

他社との比較も欠かせません。絶対値や自社における過去からの変化だけを見ても、現在の水準が「課題」として捉えるべきレベルなのか、あるいは良好な結果であるのかを判断することは困難です。他社の水準と比較してどれくらい差があるのかを示すことで、自社が他社よりも魅力的であることや、人材に十分な投資をしていることなどを説得力をもって説明することができます。

グローバルに事業を展開している企業であれば、国別のベンチマークを取得し、各国の基準を踏まえた拠点別の従業員エンゲージメントの状況を把握しておくことも求められます。通常、従業員エンゲージメントのスコアは各国の文化や価値観等に大きく左右されるため、ある国では高いスコアであっても、それが他の国の基準では低いということが考えられるからです。


ベンチマーク : 何かを評価・比較する際の基準のこと。例えば、「業界の平均値」は典型的なベンチマークである。

想定される質問(2)
「従業員エンゲージメントを向上させるうえでの課題は何か。課題解決のために経営サイドはどのような取り組みを進めているのか。」

投資家は、従業員エンゲージメントのスコアそのものよりも、むしろスコアを上げるうえでどのような点が課題になっているのか、経営サイドがそれを解決していくためのPDCAサイクルを回すことができているのか、そして、それが結果として企業価値向上につながっているのかに関心を持っています。したがって、取締役会としては、単に調査を実施して結果を説明するのみならず、課題の把握と解決に向けた取り組みを執行サイドがどのように進めているのか、取り組みの結果として人的資本の質は高まっているのか、取り組みを進めるうえでのボトルネックとその解消方法などを投資家に対して説明できるようにしておく必要があります。

例えば、経営戦略・計画に、従業員エンゲージメント調査により明らかとなった課題の解決を取り込むというプロセスを恒常的に実施している企業もあります。従業員エンゲージメント調査を「人事部によるアンケート調査」にとどめることなく、経営戦略・計画と連動した「人的資本向上のための全社的な取り組み」と位置付けることができれば、投資家に対してもその経営的な意義をより伝えやすくなるでしょう。

併せて、経営陣の評価や報酬との連動性を明確にすることも考えられます。従業員エンゲージメントのスコアを開示するだけでなく、スコアを経営目標として、経営陣の評価や報酬に反映する仕組みとすれば、従業員エンゲージメントに対する経営陣のコミットメントを示すことができます。非財務的な指標を経営陣の評価・報酬に反映する実務は日本企業でも進展が見られますが、従業員エンゲージメントはダイバーシティ等の指標と並んでよく用いられる指標となっています。

想定される質問(3)
「貴社のカルチャーはどのような特徴を有しているか。企業価値向上に資するような企業カルチャーとなっているか。」

従業員エンゲージメントに関連するテーマとして取締役会が取り組むべき重要なテーマが「企業カルチャー」です。不正・隠蔽・情報操作・ハラスメントなど問題が生じにくい健全なカルチャーを有しているかどうかは目に見えにくいものの、中長期的な企業の競争優位性と成長に大きな影響を及ぼすだけに、取締役会はモニタリングしていく必要があります。

英国FRC(財務報告審議会)が策定したGuidance on Board Effectivenessには、取締役会の役割として「カルチャーのモニタリング」が明記されています。そこには、健全なカルチャーの特徴として、オープンであることや、リスペクト、信頼性、挑戦を許容する姿勢、目的の共有などが例示されています。また、このようなカルチャーが維持されているかを見極める情報源として、離職率、健康・安全等に関するデータとともに、従業員へのサーベイが挙げられています。


英国FRC(財務報告審議会) : 英国における会計基準設定主体。監査やコーポレートガバナンス・コード等も管轄している

日本のコーポレートガバナンス・コードにも、「ステークホルダーとの適切な協働やその利益の尊重、健全な事業活動倫理などについて、会社としての価値観を示しその構成員が従うべき行動準則を定め実践すべきである」(基本原則2)、「取締役会は、行動準則が広く実践されているか否かについて、適宜または定期的にレビューを行うべきである。その際には、実質的に行動準則の趣旨・精神を尊重する企業文化・風土が存在するか否かに重点を置くべきであり、形式的な遵守確認に終始すべきではない」(補充原則2-2①)とあります。日本企業にとっても、企業文化・風土は取締役会がモニタリングすべき重要なテーマと言えるでしょう。

具体的な取り組みとして、まずは従業員エンゲージメント調査などから社員の声を集め、自社がどのようなカルチャーを有しているのかを「言語化」することから始めます。「オープンではあるが、新たなチャレンジに対して保守的な傾向がある」「トップダウンで物事が決まり、従業員が声を上げることや自発的に取り組むことは奨励されない」「社員一人ひとりを尊重する姿勢に欠け、心理的安定性を保ちにくい」といったカルチャーの特徴が明確になることは、中長期的な企業価値の向上に向けた課題やリスクのあぶり出しにもつながります。

企業のカルチャーは、財務業績や企業戦略とは異なり、明文化、定量化して議論することが難しい領域ですが、自社のカルチャーを従業員エンゲージメント調査等を通じて客観的に把握したうえで、それが健全なものであるか、健全性を損なうような懸念がないかを定期的にモニタリングし、場合によっては議論の俎上に載せることは、取締役会が保持すべき重要な機能と言えるでしょう。

想定される質問(4)
「どのような点が貴社のカルチャーにおけるリスクファクターなのか。また、それにどのように対応しているのか。」

上述のとおり、企業カルチャーを把握することは、自社が潜在的に有しているリスク要因を明らかにすることにつながります。上記英国のGuidance on Board Effectivenessでは、以下のような事象が不健全な企業カルチャーを生む可能性があるとしています。

・縦割りの風潮
・支配的なCEO
・傲慢なリーダーシップ
・極端に高い数値目標達成への圧力
・情報へのアクセス不足
・経営層と従業員の結びつきの弱さ
・チャレンジに対する許容度の低さ
・短期志向
 
従業員エンゲージメント調査により上記のような事象の存在を取締役会が早期に把握しておくことは、リスクマネジメントの観点から重要になります。

企業カルチャーの問題については、どうしても定性的で掴みどころのない議論となりがちであり、自社のカルチャーを体感していない外部のステークホルダーに対して分かりやすく説明する難しさもあります。そこで、従業員エンゲージメント調査により、自社のカルチャーへの従業員の適応度や満足度などをスコア化し、定量的かつ定期的に企業カルチャーに関するリスクを把握するということも考えられます。さらに、スコアがリスクの存在を示唆している場合、問題の発生を未然に防ぐため具体的にどのようなアクションをとっているかを対外的に説明できるようにしておきたいところです。

ただ、上記に列挙したような不健全な企業カルチャーの予兆が見えても、そのことを積極的に取締役会に共有しようというインセンティブは働きにくいのが一般的です。このような場合には、執行サイドではなく社外取締役が中心となって情報共有を働きかけることが、株主に対する説明責任を果たすことにつながります。ネガティブな情報こそオープンにすべきということを取締役会が率先して進められるかどうかは、健全な企業カルチャーを体現することに他ならないと言えます。

第三者機関が従業員エンゲージメント調査の結果を取締役会に報告する事例も

以上、従業員エンゲージメントに関しての投資家から想定される質問と取締役会の対応について解説しましたが、最近はWTWのような第三者機関が従業員エンゲージメント調査の結果を取締役会に報告する機会も増えてきています。

客観的な視点を入れて現状を把握し、課題解決に取り組み、また、企業カルチャーについての正確な理解とモニタリングを進めていくことは、投資家・ステークホルダーの人的資本に対する関心の高まりに対応するためにも益々重要となってい

2025/03/24 買収防衛策導入で取締役が「信認義務に違反していない」と判断されやすい3つのケース

フィデューシャリーアドバイザーズ代表
早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター招聘研究員 吉村一男

ニデックが牧野フライス製作所に提案した同意なき買収に対し、牧野フライス製作所が導入した対抗措置に注目が集まっている。

「買収防衛策」には、ホワイトナイトによる対抗買収、MBO高額配当など様々な手法があるが、最も一般的なのは「ポイズンピル」であろう。1980年代初頭の米国では同意なき買収が急増し、裁判所も「異常(anomaly)」 と指摘していたが、裁判所はこれを食い止めることができなかった。そこで、弁護士やアドバイザーなどのディールプランナーが1982年に開発したのがポイズンピルだ。


ホワイトナイト : 敵対的買収を仕掛けられた際に、当該買収者に対抗して、友好的な買収を提案してくれる会社等のこと。白馬の騎士(ホワイトナイト)に例えてこう呼ばれる。通常は、敵対的買収者よりも高い価格で株式を買い取るか、第三者割当増資を引き受けることになる。
MBO : MBO(マネジメント・バイアウト)とは、現在の経営者が全部または一部の資金を出資し、事業の継続を前提として一般株主から対象会社の株式を取得することをいう。
高額配当 : 企業が非常に高額な配当金を株主に支払うことで、企業の資金を大幅に減少させ、買収を経済的に非効率なものにすることにより買収防衛を図る手法。短期的には株主に利益を還元することになるが、企業の資本が減少することで、将来の成長投資や研究開発に悪影響が及び、長期的な競争力が失われるリスクもある。
ポイズンピル : 「敵対的買収者が被買収企業の株式の一定割合を取得した場合、既存株主は時価より安い価格で新株を購入できる」という権利(ライツ)を既存株主に与える手法。新株が発行されれば、敵対的買収者の持株比率は低下するとともに、1株当たりの株価も安くなり、敵対的買収者は大きな損失を被ることになる。「ポイズンピル(毒薬条項)という名称は、毒薬が回って体が弱るようなイメージがあることから来ている。

ポイズンピルは、買収対象会社に対する買収者の持株割合が一定割合(トリガー)を超えると、全ての株主に対して、株価に比べ大幅にディスカウントされた金額を払い込めば普通株式と同様の権利内容を有する議決権付き優先株式を取得できる権利が付与される一方、買収者とその関係者は当該権利を行使できないという内容となっている。このため、買収者の持株割合がトリガーを超えると、当該持株割合が希釈化され、買収者は経済的に大きな損害を被る。

当然ながら、買収者はポイズンピルの発動を差し止めるため、訴訟を提起することになる。米国の裁判所で判断のメルクマールとなっているのが「取締役が信認義務に違反してるか否か」だ。総じて、買収提案が以下の3つの型のいずれかに当てはまる場合には、取締役は「信認義務に違反していない」と判断されるケースが多い。・・・

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2025/03/24 買収防衛策導入で取締役が「信認義務に違反していない」と判断されやすい3つのケース(会員限定)

フィデューシャリーアドバイザーズ代表
早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター招聘研究員 吉村一男

ニデックが牧野フライス製作所に提案した同意なき買収に対し、牧野フライス製作所が導入した対抗措置に注目が集まっている。

「買収防衛策」には、ホワイトナイトによる対抗買収、MBO高額配当など様々な手法があるが、最も一般的なのは「ポイズンピル」であろう。1980年代初頭の米国では同意なき買収が急増し、裁判所も「異常(anomaly)」 と指摘していたが、裁判所はこれを食い止めることができなかった。そこで、弁護士やアドバイザーなどのディールプランナーが1982年に開発したのがポイズンピルだ。


ホワイトナイト : 敵対的買収を仕掛けられた際に、当該買収者に対抗して、友好的な買収を提案してくれる会社等のこと。白馬の騎士(ホワイトナイト)に例えてこう呼ばれる。通常は、敵対的買収者よりも高い価格で株式を買い取るか、第三者割当増資を引き受けることになる。
MBO : MBO(マネジメント・バイアウト)とは、現在の経営者が全部または一部の資金を出資し、事業の継続を前提として一般株主から対象会社の株式を取得することをいう。
高額配当 : 企業が非常に高額な配当金を株主に支払うことで、企業の資金を大幅に減少させ、買収を経済的に非効率なものにすることにより買収防衛を図る手法。短期的には株主に利益を還元することになるが、企業の資本が減少することで、将来の成長投資や研究開発に悪影響が及び、長期的な競争力が失われるリスクもある。
ポイズンピル : 「敵対的買収者が被買収企業の株式の一定割合を取得した場合、既存株主は時価より安い価格で新株を購入できる」という権利(ライツ)を既存株主に与える手法。新株が発行されれば、敵対的買収者の持株比率は低下するとともに、1株当たりの株価も安くなり、敵対的買収者は大きな損失を被ることになる。「ポイズンピル(毒薬条項)という名称は、毒薬が回って体が弱るようなイメージがあることから来ている。

ポイズンピルは、買収対象会社に対する買収者の持株割合が一定割合(トリガー)を超えると、全ての株主に対して、株価に比べ大幅にディスカウントされた金額を払い込めば普通株式と同様の権利内容を有する議決権付き優先株式を取得できる権利が付与される一方、買収者とその関係者は当該権利を行使できないという内容となっている。このため、買収者の持株割合がトリガーを超えると、当該持株割合が希釈化され、買収者は経済的に大きな損害を被る。

当然ながら、買収者はポイズンピルの発動を差し止めるため、訴訟を提起することになる。米国の裁判所で判断のメルクマールとなっているのが「取締役が信認義務に違反してるか否か」だ。総じて、買収提案が以下の3つの型のいずれかに当てはまる場合には、取締役は「信認義務に違反していない」と判断されるケースが多い。

1つ目が、最初の買付条件を有利にし、二段階目の買付条件を不利に設定したケースだ。この場合、株主が最初の買収に応じなければ不利益を被るような状況を作り出しており、その結果、株主に売り急がせることになる。これは「構造的強圧型」と呼ばれる。2つ目が、株価が低迷する中で買収オファーが行われ、買収価格は不適切に低いにもかかわらず、買収者が事前に取締役会と十分な協議を行うことなく、いきなり買収を仕掛けるようなケースだ。この場合、取締役会がより優れた代替案を提示する機会は失われ、結果的に株主の利益も損なわれることになる。これは「代替案喪失(機会損失)型)」と呼ばれる。3つ目が、会社の成長性や過去の投資の効果への評価、さらには買収者のオファー内容が不正確なケースである。この場合、株主は十分な情報を得ないまま買収価格の高低のみで、企業価値を相対的に損なう買収オファーに応じてしまうことになる。これは「株主誤信(実質的強圧性」型」と呼ばれる。

牧野フライス製作所がニデックの同意なき買収に対抗するために導入した買収防衛策は、株主が、ニデックによる買収提案と第三者からの(ニデックの提案と競合する)提案を比較検討したうえで適切な判断を行うため、第三者からの提案が具体化するまでに必要な最小限の期間だけ、ニデックによる買付けの開始を先延ばしすることのみを目的としている(牧野フライス製作所のリリース①リリース②)。牧野フライス製作所がこのような買収防衛策を導入した背景には、ニデックによる買収提案を検討する期間が実質的に3か月弱に過ぎず、提案の内容を精査したり競合提案を探索したりするための時間・情報が決定的に不足していることが挙げられる。すなわち、牧野フライス製作所はニデックによる買収提案を、上述した裁判所が「取締役が信認義務に違反していない」と判断するメルクマールの2つ目「代替案喪失(機会損失)型)」に該当すると考えていることが窺える。

日本の会社法は「株主総会」が絶対的な権限を持つドイツ法をベースとしていることから、買収防衛策を発動する際にも株主の意思を確認する必要があり、この点、ポイズンピルを取締役会の意思決定のみで発動できる米国とは異なる。しがたって、米国の裁判所の考え方がそのまま当てはまるわけではないが、ニデックによる牧野フライス製作所に対する同意なき買収は、「買収防衛策」の考え方を学ぶ絶好のケーススタディと言える。上場会社であればいつ買収されてもおかしくない時代が到来する中、その行方が注目される。

2025/03/21 【失敗学第129回】MTGの事例(会員限定)

概要

ReFaのドライヤーやSIXPADなどのブランドの開発・販売を行っているMTG(東証グロース市場)のグループ内広告代理店業務(ハウスエージェンシー)を営む子会社の社長が、MTGグループからの受注がないにもかかわらず独断で外部に広告枠を発注し、発注先からMTGグループ各社宛の請求書が届いてもそれを提出しなかったり、あるいは改ざんまたは偽造して提出したりしていた。その結果、当該子会社において発注先への未払額が累積するとともに、MTGグループでは広告の実施内容の認識を誤ってしまい広告料を過少に計上(2024年9月期は646百万円の広告料の過少計上)するとともに、その分だけ連結利益を過大に計上することとなった。

経緯

MTGが2025年2月10日に公表した「特別調査委員会の調査報告書」等によると、一連の経緯は次のとおり。

2021年
1月:a氏がMTGの子会社でグループ内の広告業務を専属的に行っているM’sエージェンシー(以下、M’s)の営業部部長として勤務を開始した。a氏は、入社してから数か月後から、M’s内での発注稟議を経ずに未受注広告の発注を行い始めた。

2023年
12月1日:a氏がM’sの代表取締役に就任した。

2024年
11月上旬:M’sの取引先である外部の広告代理店より、MTG従業員に対して、M’sが頻繁に支払いを遅延している旨の情報提供があった。そこで、MTGの内部監査室が調査したところ、当該広告代理店の認識と、過去にM’sがMTGに報告してきた情報との間で、請求金額、請求内容、広告の実施時期および支払時期に差異があることが判明した。また、そうした認識の差異の原因として、M’sの代表取締役社長のa氏が請求書等の仕入計上に係る文書を改ざんしてMTGに提出している疑いが生じた。
12月13日:MTGは特別調査委員会を設置した。
12月19日:M’sは代表取締役社長のa氏を解任した。

2025年
2月7日:MTGが2025年9月期第1四半期決算短信の開示が四半期末後45日を超えることをリリースした。
2月10日:MTGが「特別調査委員会の調査報告書」を公表した。
2月20日:MTGが再発防止策を策定し、役員報酬の一部を自主返納することをリリースした。

内容・原因・再発防止策

MTGが2025年2月10日に公表した「特別調査委員会の調査報告書」や2025年2月20日に公表した「再発防止策」によると、本件不正の内容、原因および再発防止策は次のとおりとされている。

子会社による外部からの請求書の偽造
内容 M’sの代表取締役社長のa氏は、MTGグループ各社から広告の受注を受けていないにもかかわらず、無断で広告枠を押さえ(社内ルールに違反して受注に先行して広告枠を発注しておく)、結果的にMTGグループから受注ができなくても、発注先には延払いを要求したり、発注先からの請求書を偽造してMTGに報告したり、発注料の一部をM’sが負担したりするなどして発覚を免れていた。その結果、M’sの発注先への未払額が累積するとともに、MTGグループでは広告の実施内容の認識を誤ってしまい広告料を過少に計上(2024年9月期は646百万円の広告料の過少計上)するとともに、その分だけMTGグループの連結利益を過大に計上することとなった。
原因 <動機>
・a氏は、M’sが主体となって優良と考える広告枠を確保することでプレゼンスを発揮したいという考えから、甘い見込みの下、未受注広告の発注を開始し、これを繰り返し行ううちに、危機意識や規範意識がより低下していき、金額や頻度を増大させていった。
・a氏は、請求書の改ざん等によって実態と異なる広告の実施月を記載した書類をMTGに提出することが、会計上の損益に影響を及ぼす結果となることまでは認識していなかった。
<機会>
・MTGの経営層や管理部門は、M’sについて、ハウスエージェンシー(グループ内の広告業務を専属的に行う代理店)として、MTGグループの発注どおりに広告を仕入れるだけの会社(いわゆる「右から左に流す会社」)と認識しており、会社としてのリスクは低いと評価していた。また、MTGのJ-SOXにおいてM’sはスコープ対象外であった。
・広告業界の慣習上、発注書は必ずしも必要とはされておらず、a氏はMTGの稟議承認がなくても口頭発注が可能であった上、発注書の提出が必要な場合でも、当該発注書への押印にMTG内の押印承認手続は不要であったことから、a氏が自ら又は部下に指示して独断で押印して提出することも可能な状態であった。
・M’sには5人しか役職員がおらず、a氏以外の役職員は広告業界に関する知見を必ずしも十分に有していないことから、M’sにおけるa氏への牽制も十分ではなかった。
・M’sは、社内規程上、MTGの稟議承認(発注決定)がなければ発注ができないとされていたものの、a氏が不正に未受注広告の発注を行うことは想定されていなかった。そのため、M’sには当該発注行為を具体的に制止できる手続・制度は存在しなかった。
・MTGの財務経理部門は、各月のMTGグループからの受注金額と、M’sから申請される請求書の金額の総額とを対比し、粗利の数値の異常性の有無を確認していたものの、発注稟議書類や請求書を突合して精査する等のチェックは行っていなかった。
・a氏はM’sに入社する以前に、類似した不祥事を二度起こしていた。仮にa氏について入社時および代表取締役選任時にレファレンスチェック(身辺調査)を行っていれば、今回の不祥事の発生を予見できた可能性があった。
<正当化>
・a氏は、優良と思われる広告枠があれば、MTGグループ各社から受注していなくても、自らの目利きを信じて当該広告枠を急いで押さえることがM’sの存在意義であると考えていた。
再発防止策 (1)子会社役員の選任手続の人物評価の拡充
(2)コンプライアンス意識の向上のための実効的な教育・研修の実施
(3)子会社のリスク分析の結果に基づく管理・支援のための施策の実施
(4)内部通報制度の充実
(5)M’sの解散
<この事例から学ぶべきこと>

MTGグループ内では、M’sはMTGの稟議承認(発注決定)がなければ発注ができないルールとなっており、その結果「右から左に流す会社」としてリスクを低く評価されていました。また、M’sが無断で未受注広告の発注を行うという事態を想定しておらず、それを制止できる統制も準備されていませんでした。不正リスクが少ないと評価されている部署や子会社であっても、「本当に不正リスクは低いのか」という目線で定期的にリスクを洗い出す仕組みを構築すべきです。

M’sのa氏は、自己の行った行為が粉飾決算につながってしまうことを理解していませんでした。役職員への研修時には、良かれと思って社内ルールから逸脱した行為をしてしまうと、結果として会社の決算が誤る可能性があるということについてしっかりと説明するようにしましょう。

また、不正リスクは採用時および役員昇格時のリファレンスチェックで一定程度抑えることができます。役員昇格時のレファレンスチェックはたとえリスクの低い子会社であっても忘れないようにしたいところです。

2025/03/19 プロキシー・ファイトという同意なき買収

プロキシー・ファイトという同意なき買収
フィデューシャリーアドバイザーズ代表
早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター招聘研究員 吉村一男

日本ではコーポレートガバナンスを外部から実現するための手段として「同意なき買収」が増加しているが、米国では「プロキシー・ファイト(委任状争奪合戦)」がメインの手段として定着している。「米国史上最大」と言われたウォルト・ディズニーの委任状争奪合戦は記憶に新しい。


プロキシー・ファイト(委任状争奪合戦) : 株主総会において、会社提案の議案を否決したり、株主提案の議案を可決させたりするために、株主が会社の経営陣と委任状(議決権)を奪い合うこと。ファンド等の株主が、会社提案の否決または株主提案への賛成を求める委任状を他の株主に送付する形で行われる。自社が敵対的買収のターゲットとなった場合には、会社と買収者がともに委任状勧誘を行う委任状争奪合戦(プロキシー・ファイト=proxy fight)へと発展することが多い。

米国における1981年から2012年までのプロキシー・ファイト(Proxy Contests)と同意なき買収(Hostile Tender Offers)の数を時系列で見ると、1980年代、株主は同意なき買収に依存することが多かったが、1990年代以降は委任状争奪戦に依存していることが分かる。この傾向は現在も変わっていない。

0319

何故だろうか。・・・

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2025/03/19 プロキシー・ファイトという同意なき買収(会員限定)

プロキシー・ファイトという同意なき買収
フィデューシャリーアドバイザーズ代表
早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター招聘研究員 吉村一男

日本ではコーポレートガバナンスを外部から実現するための手段として「同意なき買収」が増加しているが、米国では「プロキシー・ファイト(委任状争奪合戦)」がメインの手段として定着している。「米国史上最大」と言われたウォルト・ディズニーの委任状争奪合戦は記憶に新しい。


プロキシー・ファイト(委任状争奪合戦) : 株主総会において、会社提案の議案を否決したり、株主提案の議案を可決させたりするために、株主が会社の経営陣と委任状(議決権)を奪い合うこと。ファンド等の株主が、会社提案の否決または株主提案への賛成を求める委任状を他の株主に送付する形で行われる。自社が敵対的買収のターゲットとなった場合には、会社と買収者がともに委任状勧誘を行う委任状争奪合戦(プロキシー・ファイト=proxy fight)へと発展することが多い。

米国における1981年から2012年までのプロキシー・ファイト(Proxy Contests)と同意なき買収(Hostile Tender Offers)の数を時系列で見ると、1980年代、株主は同意なき買収に依存することが多かったが、1990年代以降は委任状争奪戦に依存していることが分かる。この傾向は現在も変わっていない。

0319

何故だろうか。

これは、米国では日本と異なり、買収提案が「株主の利益」に対して「脅威」である場合に取締役は自社を買収から防衛することができるため、買収者にとって買収コストが大きいからだと言われている。また、1992年に行われたSEC(米国証券取引委員会)による委任状勧誘規則の改正によって、機関投資家間の連携が容易になったこともこれに拍車をかけている。2021年には「ユニバーサルプロキシーカード」が導入され、委任状により投票する株主は直接投票する株主と同様、会社が提案した候補者名簿のみならず、アクティビスト等が提案した候補者名簿も含め、希望する候補者名簿を選ぶことができるようになり、株主が取締役会に席を得ることが容易になった。


委任状勧誘 : ある株主が他の株主に対して「議決権を代理で行使させて欲しい」と勧誘する行為。委任状勧誘は、(1)会社提案の議案を否決するため、または(2)株主自らが提案(株主提案)する議案を可決するために行われる。自社が敵対的買収のターゲットとなった場合には、会社と買収者がともに委任状勧誘を行う “委任状争奪合戦(プロクシー・ファイト=proxy fight)”へと発展することが多い。
ユニバーサルプロキシーカード : 株主が企業の取締役選任議案に投票する際に使用される新しい形式の投票用紙。このカードでは、企業の経営陣が提案した候補者と、反対派やアクティビストが提案した候補者の両方が1枚のカードに記載される。従来のルールでは、郵送や電子メールで投票する株主は、特定の候補者リストにしか投票できなかったが、このカードの導入により、株主は直接投票する場合と同じように、すべての候補者の中から自由に選択して投票できるようになった。

ここで、2022年に話題となったイーロン・マスク氏によるTwitterの同意なき買収の事例を見てみよう。

マスク氏はTwitterのユーザーであり、2022年3月下旬現在、約8,000万人のフォロワーがいたが、3月25日に「言論の自由は、民主主義が機能するために不可欠。Twitterはこの原則を厳格に守っていると思いますか?」とツイート。それから2週間も経たない4月5日、Twitterの株式を9.2%保有し、筆頭株主となったことが明らかとなった。

その翌日、TwitterのCEOであるパラグ・アグラワル氏は、マスク氏を取締役に指名すること、マスク氏は取締役就任期間中、14.9%以上のTwitter株式を取得できないことを公表し、マスク氏も「今後数か月以内に、アグラワル氏と&Twitterの取締役会と協力してTwitterを大幅に改善することを楽しみにしている」とツイート。Twitterに対し友好的かと思われた。しかし、マスク氏は4月11日、Twitterの取締役会に参加する計画を放棄したことを公表、さらに4月14日には、Twitterに「1株あたり54.20ドル(約440億ドル)」で最終的な買収提案を行ったことを明らかにするとともに、「I made an offer」とツイート。これに対してTwitterの取締役会は4月15日、買収防衛策であるライツプラン(いわゆる「ポイズンピル」)を公表した。


ライツプラン(いわゆる「ポイズンピル」) : 「敵対的買収者が被買収企業の株式の一定割合を取得した場合、既存株主は時価より安い価格で新株を購入できる」という権利(ライツ)を既存株主に与える手法。新株が発行されれば、敵対的買収者の持株比率は低下するとともに、1株当たりの株価も安くなり、敵対的買収者は大きな損失を被ることになる。「ポイズンピル(毒薬条項)という名称は、毒薬が回って体が弱るようなイメージがあることから来ている。

マスク氏は4月21日にTwitterの買収資金約460億ドルの調達パッケージを公表するなど、買収に向けた準備を進める一方、Twitterの取締役会議長であるブレット・テイラー氏と2度にわたり会談。その結果、Twitterの取締役会は4月25日、「Elon Musk to Acquire Twitter」(イーロン・マスク、ツイッターを買収)と題するプレスリリースを公表し、同氏の提案を受け入れた。

このようにTwitterの取締役はマスク氏の買収提案をあっさり受け入れたが、何故だろうか。

マスク氏の買収価格がTwitterの企業価値を上回っており、買収価格と市場価格の差である買収プレミアムが大きかったため、受け入れざるを得なかったというのが一般的な見方だろう。しかし、本当の理由は、機関投資家を含む大株主の一部が、取締役に対し、もし買収を受け入れなければ、次回の株主総会でマスク氏の推薦する取締役の選任を提案し、たとえ取締役会が拒否しても、プロキシー・ファイト(委任状争奪合戦)を行うと連絡したことにあると言われている。これは、プロキシー・ファイトによって取締役を入れ替え、新しい取締役会に「友好的買収」を持ちかけることによって会社を手に入れることができるというメッセージに他ならない。同意なき買収がなくなったわけではなく、その形態がプロキシー・ファイトに変わったにすぎないということだ。

日本でも、米国の投資ファンドであるバリューアクト・キャピタルが2023年5月、セブン&アイ・ホールディングスに対しバリューアクトが推薦する取締役を選任するよう求める株主提案を行い、これをセブンの取締役会が拒否したためプロキシー・ファイトになったが、株主はセブンが推薦する取締役の選任案を承認した。一方、カナダのコンビニエンスストア大手のアリマンタシォン・クシュタールは2024年8月、セブンに同意なき買収を提案した。セブンの株式を保有する機関投資家を含む株主が、セブンの取締役に対し「もし買収を受け入れなければ、次回の株主総会で取締役の交代を提案し、プロキシー・ファイトをする」と連絡したか否かは定かではないが、セブンの取締役は急転直下、MBOによる非公開化の提案を検討しているとしたのは周知のとおりだ。

多くの日本企業では6~7割の株式が外部株主によって保有されているものの、いまだ株式の持ち合いも残存しているため、株主が株主総会で勝つには、米国企業のケースよりも多くの株式を保有する必要があり、株主がプロキシー・ファイトで勝つことは難しい。しかし、持ち合い解消が進む中、今後はプロキシー・ファイトの存在は無視できないものとなるだろう。