タワーズワトソン株式会社(WTW)
経営者報酬・ボードアドバイザリー
シニアディレクター
佐川 裕一
コーポレートガバナンス・コード(CGコード)の補充原則4-11①は、スキル・マトリックスを、経営戦略に照らし取締役会として備えるべきスキル等を特定した上で、全体としてのバランスや多様性も踏まえ「各取締役の知識・経験・能力等を一覧化」したもの、と定義しています。この定義を踏まえれば、スキル・マトリックスに記載するスキル項目は、肩書や職歴から機械的に抽出するのではなく、自社の長期ビジョンを実現し、中期経営計画に掲げた経営目標を達成するために取締役会として確保すべき知識・経験・能力を基準に選定すべきです。また、スキル・マトリックスは一度策定して終わりではありません。経営計画等の変更や外部環境変化があった場合には、それに応じて取締役会が備えるべきスキルを見直す必要があります。
以下では、実効的なスキル・マトリックスを策定・開示するためのポイントを、①自社のスキル・マトリックスの主旨・目的の説明、②スキル項目の内容と数、③保有スキルの評価基準の明確化、④スキル項目の見直しのタイミングやそのプロセス、という4つの視点から、事例とともに解説します (注:すべての事例は、2025年度における各社の開示資料に基づいています)。
1. 自社のスキル・マトリックスの主旨・目的の説明
「経営」「法務」などの定型項目を並べたスキル・マトリックスのみを何の説明もないまま開示しても、なぜその項目が自社にとって重要なのか、また、それが経営戦略とどのように結び付くのかといったことが読み手(ステークホルダー)に伝わらない恐れがあります。そこで、スキル・マトリックスに加え、以下のような点を説明した「前文」(または補足説明)も掲載することが有用です。これにより読み手は、会社がどのような考えや理由によりそのスキル項目を選定したのかを理解でき、スキル・マトリックスを適切に評価しやすくなります。
また、このような補足説明は、スキル項目の選定理由等を示すのみならず、それが取締役の選任方針・手続とどのように結び付いているかを明らかにする意味でも有用です。これは、スキル・マトリックスを「取締役の選任に関する方針・手続と併せて開示すべき」とするコーポレートガバナンス・コード(CGコード)補充原則4-11①(第三次改訂案では原則4-12(1))の趣旨にも適うものとなります。
<前文(または補足説明)で伝えるべきポイント(例)>
・ スキル・マトリックスの策定目的は何か
・ 経営戦略とスキル・マトリックスとの関係をどのように位置づけているか
・ スキル・マトリックスを取締役等の選任プロセスにおいてどのように活用しているか
<前文(または補足説明)の記載事例>
・ 策定目的と、特筆すべきスキル(全員が備えるべきスキル、監査等委員に求めるスキル)を説明<住友商事>
・ 策定目的と、経営理念・マテリアリティ・重点戦略を踏まえたスキル選定プロセスを説明<ピジョン>
・ 2030年ビジョンの実現に向けた取組みと、各々の取組みに対応するスキル項目を図示<本田技研工業>
・ 中期経営計画の重点課題と、それに対応するスキル項目との関係性を図示<いすゞ自動車>
・ 策定プロセス(コア・基盤スキルと自社固有のスキルの導出)と、選任プロセスへの活用について説明<日本ハム>
2. スキル項目の内容と数
プライム上場企業では、概ね7〜10個前後のスキル項目を設定するのが一般的であり、典型的なものとしては、「企業経営」「法務・コンプライアンス」「財務・会計」「グローバル」「IT・デジタル」「マーケティング」などが挙げられます。しかし、これらの項目を単に並べるだけでは、他社との違いが見えにくく、自社の強みや特性も伝わりづらくなります。
そこで、以下の工夫をすることにより内容にメリハリをつけ、自社の独自性を出すとともに、経営戦略との関連性を強調することができます。また、そのスキル項目の選定の考え方や理由を上述1の「前文」で説明することで、各項目の設定根拠が明確になり、取締役会としてどのような能力を重視しているのかも読み取りやすくなります。
<独自性や経営戦略との関連性を示すための工夫(例)>
・ すべてのスキル項目を、①取締役会が監督機能を発揮するために一般的に求められるものと、②自社のビジネスの特性や経営戦略に照らして必要となるものに、独自のカテゴリーを設けて分類(上記の例では、「企業経営」「法務・コンプライアンス」「財務・会計」等が①、それ以外は②に該当)
・ 自社のビジネスの特性や経営戦略を踏まえた独自のスキル項目を設定
<スキル項目を分類し、独自の項目を設定した事例>
・ 「基礎的事項」(2項目)と「経営戦略関連事項」(5項目)に分類し、後者のカテゴリーで「エネルギー」を設定
(三菱商事)
・ 「経営の監督として必要なスキル」(4項目)、「モビリティーカンパニーへの変革を推進するスキル」(2項目)、「トヨタとして大事にし続けるスキル」(4項目)に分類し、3つ目のカテゴリーで「スポーツ・モータースポーツ」を設定(トヨタ自動車)
・ 「保険持株会社の取締役として必要な見識・経験」(7項目)と「中期経営計画を踏まえた重要な事業戦略・経営課題に関する見識・経験」(4項目)に分類し、後者のカテゴリーで「M&A/新規事業」を設定(第一生命ホールディングス)
3. 保有スキルの評価基準の明確化
各スキル項目について、ほとんどの取締役に根拠や評価基準の説明もなく「〇」が付されていると、その判定が十分な検討を経たものなのかという疑念を読み手に持たれる恐れがあります。
これを避けるためには、評価の「客観性」が読み手に伝わるような工夫が必要です。例えば、各スキル項目について評価に段階を設けたり、1人の取締役について「〇」を付す項目数に上限を設けたりすることで、取締役間での「強み」の相対比較や取締役会全体としてのバランスが見えやすくなります。こうした工夫は評価の実質性を担保することにもつながり、スキル・マトリックスの正当性や公平性に対する信頼度の向上も期待されます。具体的な事例としては以下のものが挙げられます。
<評価の「客観性」を伝えるための工夫をしている事例>
・ スキル項目の一覧表で、項目ごとに必要とされる見識・経験・能力について説明 (日本電気、エーザイ)
・ 役員別に、各スキル項目への該当理由を、関連する見識・経験とともに説明 (出光興産、小松製作所)
・ スキル項目ごとに、実績や経験の深度を記号等により区別して表示するとともに、指名委員会が特に発揮を期待するスキルを明示(例:◎・〇や背景色により区分) (LIXIL、日本ペイントホールディングス)
・ 役員別の該当項目数に上限を設定(例:最大5〜6項目)(ニトリホールディングス、ピジョン)
4. 見直しのタイミングとそのプロセス
スキル・マトリックスは、経営戦略に照らして取締役会が備えるべき知識・経験・能力を明確化し、現取締役がその要件を満たしているかを可視化するツールです。そのため、長期ビジョンや中期経営計画などが変更された場合には、まず「スキル項目」を見直し、現取締役がそれを充足しているかを改めて評価する必要があります。また、取締役が交代した際にも、「スキル保有状況」の更新が欠かせません。また、M&A により新規事業へ参入する場合には、新たな事業ポートフォリオマネジメントの監督に必要な追加スキルや、それを有する人材の起用について、取締役会や指名委員会での検討が求められます。
経営戦略の変更や M&A といった大きなイベントがない年度であっても、外部環境や業績・財務状況の変化を踏まえて、スキル・マトリックスの見直しの要否を確認することが重要です。なぜなら、こうした変化によって、スキル項目そのものは変わらなくても、その内容、すなわちスキルの定義や評価基準、求められる経験・キャリア(*)は変わり得るからです。例えば、「企業経営」スキルは、成長期・成熟期・再建期などのフェーズごとに求められる資質が異なります。同様に「グローバル」スキルも、海外事業拡大フェーズと地政学リスクが高まっている局面では、期待される経験値が違ってきます。このような環境変化を適切に捉えて人材要件に反映するためには、社外取締役の主体的な関与のもと、しがらみのない客観的視点での議論が望まれます。
* 人材要件等については必ずしもその詳細を開示する必要はなく、開示の範囲は各社の判断に委ねられるものと考えられます。
前述のとおり、CGコードではスキル・マトリックスを「取締役の選任に関する方針・手続」と併せて開示することが求められています。これは、スキル・マトリックスが取締役の選任や再任・不再任の判断、及び後継者計画(サクセッションプラン)と連動して運用されるべきということを示していますが、そのためにも、スキル・マトリックスを、上記のような見直しを通じ、外観のみならず中身も含めて常に最新バージョンとしておくことが重要になります。また、指名委員会では、スキル・マトリックスの見直しと後継者計画を一体的に検討する必要があります。これにより、取締役会に必要なスキルと、それを担う人材の選定・育成とを結び付けて考えることができるからです。
以上を総括すると、スキル・マトリックスは、形式・外観だけ整えればよい単なる一覧表でなく、経営戦略と連動する「経営人材ポートフォリオ」と捉えるべきです。そして、その実効性は、スキル項目の適切な設定、客観性のある評価の可視化、さらには環境変化に応じたタイムリーな見直しの3点により担保されます。その過程では株主・投資家の声も適宜ヒアリングし、改善に活かしていくことが重要です。指名委員会等の主導のもと、これらの要所を押さえた運用プロセスが多くの企業で定着することが期待されます。