米国の「空売りファンド」、グラウカス・リサーチ・グループ(以下、グラウカス)が伊藤忠商事(以下、伊藤忠)に対して仕掛けた「空売り」は失敗に終わったように見えるが、「空売りのポジションを取った後に不正会計の存在を主張するレポートを公表する」という日本企業にとっては馴染みのない手法によりキャピタルゲインを得ようとするグラウカスの手法に違和感・危機感を持った役員も多いのではないだろうか。
まずは本件の詳細な経緯を振り返ってみよう。
グラウカスは2016年7月27日、伊藤忠の株式を「強い売り」推奨とするレポートを公表した。これが“空売り騒動”の発端である。レポートでは、目標株価を2016年7月26日の終値1,262円の半値に相当する631円としたうえ、伊藤忠の“不正会計”も指摘した。これを受け、伊藤忠の株価は早くもレポート公表日の7月27日には年初来安値である1,136円まで落ち込んだ。ここまではグラウカスの目論見通りだったと言える。
グラウカスの目論見 : グラウカスは空売り(株式を証券会社から借りてきて売却)をしており、将来株式を買い戻して返す必要があるため、株価が下がれば下がるほど、グラウカスの利益は増えることになる。
しかし、それからひと月以上が経過し、伊藤忠の株価はレポート公表日前日の終値近辺の水準で推移している。この間におけるグラウカスと伊藤忠双方の主張をまとめると以下のとおりとなっている。グラウカスは3つの会計処理を問題視している(レポートは、こちらをクリックし、メールアドレスを入力後、3つのチェックボックスにチェックを入れ「continue」ボタンを押すことで閲覧可能になる)。
| グラウカスの主張 | 具体的な内容 |
| コロンビアで石炭事業を営むDrummond International, LLC(以下、ドラモンド JV)の株式の不適切な区分変更により 2015年3月期は利益が1,531億円過大であった | IAS第28号では、被投資企業の議決権の 20%以上を保有していれば「重要な影響力」を有していると推定され、その投資は原則的に関連会社投資として扱わなければならない。 しかし、伊藤忠は2015年3月期において、ドラモンド JV に対する持分を「関連会社投資」から「一般投資」に区分変更した。グラウカスとしては、公表された情報を基に、「伊藤忠はドラモンド JV に対して重要な影響力を有している」(すなわち、区分変更せずに関連会社投資のままとするのが妥当)と分析している。 この区分変更は、損失認識を回避する手段であったのではないか。また、区分変更に伴う再評価でも減損損失を認識していないのはなぜか。グラウカスの計算によれば、伊藤忠は2015年3月期に少なくとも 1,531 億円の減損損失を計上するべきだった。 |
| 中国の国有企業 CITIC Ltd (以下、CITIC)への投資に持分法を適用すべきではない | 伊藤忠は2015年1月20日、6,000億円を投じて香港証券取引所に上場している中国の国有企業CITICの株式 10%を取得する契約を締結した。CITICは中国政府が運営し、議決権の過半数を保有する企業である。そのため、グラウカスは「伊藤忠が CITICの戦略、 運営、方針決定に何らかの重要な影響力を及ぼし得る可能性は極めて低い」と考えている。伊藤忠は CITICへの投資を(持分法を適用することで)連結会計に取り込むべきではない。 |
| 中国の食品・流通大手の頂新に対する非支配株主持分の投資の区分変更により2015年3月期に計上した600億円の特別利益は不適切であった | 伊藤忠は2010年以来、頂新の18.7%の持分を有していた。伊藤忠は、頂新株式を保有していたアサヒビールとのJV(ジョイントベンチャー)を解体後、保有実態にほとんど変化がなかったにもかかわらず、持分法投資から一般投資へ区分変更を行い、それにより非現金利益として600億円の特別利益を計上した。 |
IAS第28号 : 国際会計基準審議会(IASB)が定めた「関連会社及び共同支配企業に対する投資」についての会計基準。伊藤忠はIFRS採用企業のため、日本基準ではなくIASが適用される。
損失認識を回避 : 関連会社投資であれば、持分法が適用されるのが原則であり、投資先で利益が計上されればその利益に対する持分相当分を利益として計上し、投資先で損失が計上されればその損失に対する持分相当分を損失として計上しなければならない。一方、一般投資であれば、公正価値で測定されるため、持分法のように利益・損失の持分相当額が計上されるわけではない。
区分変更に伴う再評価 : 持分の投資区分を持分法適用関連会社から一般投資に変更する際には、持分を再評価し、投資額と再評価額が異なっていれば損益を認識しなければならない。
重要な影響力を及ぼし得る可能性 : グラウカスはレポートで「中国共産党が保有し、支配し、指導する企業に対して、伊藤忠が「重要な影響力」を有すると信じる人が果たしているだろうか?その答えは明らかに「ノー」であろうと、弊社は考える」と述べている。
このレポートに対して、伊藤忠はすぐに反論を開始した。
| リリース日 | タイトル | 伊藤忠の反論の内容 |
| 2016年7月27日 | 当社の会計処理に関する一部報道について | 当社は適切な会計処理を実施しており、当社の会計処理に関するグラウカスの調査レポートの見解は当社の見解とは全く異なるものである。当社の単体および連結財務諸表は有限責任監査法人トーマツによる監査を受けており、いずれも適正であるとの監査意見を取得している。 |
| 2016年7月27日 | 当社の会計処理に関する一部報道について(その2) | <ドラモンド JVへの投資の投資区分の変更について> 2014年度にドラモンド JVが潜在的議決権を有する優先株式を発行した際に、ジョイントベンチャー契約の見直しが行われた。それに伴い、伊藤忠は同社の予算および設備投資等の重要な決議事項に対する承認権を有さないこととなり、営業および財務方針に重要な影響力を行使できなくなったため、同社の持分の区分を持分法投資から一般投資に変更した。 <CITICに関する連結処理> 伊藤忠は、2014年度にCITICを中心とする企業集団およびCPグループと共同で設立した事業会社(当社持株比率50%)を通じてCITICの議決権株式を20%保有していることから、持分法を適用している。 <頂新に関する会計処理> 伊藤忠は、2014年度に頂新の保有持分の一部売却を行うとともに、株主間協定書を改定した。これに伴い、伊藤忠の頂新に対する経営関与度合いが低下したため、頂新の持分の区分を持分法投資から一般投資に変更した。 |
これに対して、グラウカスは7月28日に「弊社はレポートの中で、伊藤忠の財務諸表と開示情報の44ページに及ぶ詳細な分析を示し、コーポ―レートガバナンスや会計方針を巡る複数の問題点を指摘している。同日、伊藤忠が発表した形式的な1 ページの通知はあまりに短く通り一遍のものであり、弊社のレポートが挙げた問題点に対する意味ある対応とはなっていない」とのコメントを公表した。
伊藤忠は、さらに8月1日に次のリリースを行った。
| リリース日 | タイトル | 伊藤忠の反論の内容 |
| 2016年8月1日 | 当社の会計処理に関する一部報道について(その3) | グラウカスは調査レポートで「(グラウカスは)伊藤忠に空売りポジションを保有しており、同社の株価が下落すれば相当の利益が実現する立場にあります」と表明している。すなわち、グラウカスは、空売りポジションを保有した後に、一方的に当社の企業価値が毀損しているとの独自の見解を表明し、株価の下落を実現させた後に、買い戻して「相当の利益が実現する」ことを目的としている。グラウカスは、「本レポート及びここに含まれる内容は全て Glaucus Research Group California, LLC の見解を表すものであり、事実の提示ではありません」とレポートに記載しているとおり、あくまでもグラウカスの独自見解に基づいて当社(伊藤忠)株式の売却を推奨しているものに過ぎない。投資家には、グラウカスの免責文言に十分に留意のうえ、また、グラウカスの投資手法を見極めたうえで、慎重な投資判断を行っていただくようお願いする。 |
伊藤忠の反論が功を奏し、同社の株価水準は日を追うごとに回復、2016年9月以降はレポート公表日前日の終値近辺の水準で推移している。グラウカスは問題追及のための第三者委員会の設置を求めているが、伊藤忠は設置不要と判断、グラウカスが仕掛けた議論は膠着状態に陥っている。
株価水準だけを見るとグラウカスの当初の目論見は失敗したかに見える。しかし、グラウカスの日本における知名度が大幅に高まったのは間違いない。今回の騒動は、空売りポジションを保有した後に「独自の見解」として会計不正を訴える同社の投資手法は倫理的に許されるのかといった議論も引き起こしたが、明確な規制がない以上、再び同様のことが発生しないとは限らない。
上場会社としては、グラウカスなどの空売りファンドから「次」のターゲットに選ばれないようにするには、会計処理の透明性の確保し、「減損の必要性がないこと」や「持分の区分変更」のように疑義を持たれそうな事項については、法定された開示事項以上に積極的なディスクロージャーを行い、投資家の不安を払しょくするように努める必要がある。
