2.途上国の天然資源等を利用した研究開発に消極的になる企業
名古屋議定書とは、2010年に名古屋市で開催された「生物多様性条約」第10回締約国会議(COP10)において採択された国際条約であり、2014年夏における50か国目の「締結」をもって、同年秋に発効している。ただし、日本はまだ締結していない。
名古屋議定書の前提となった生物多様性条約は1992年に採択され1993年に発効した国際条約であり、「生物多様性の保全」と「生物多様性の構成要素の持続可能な利用」に加え、「遺伝資源の取得の機会及びその利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分(ABS:Access and Benefit-Sharing)を目的としている。名古屋議定書のポイントは、このABSに関する規定が盛り込まれたという点にある。
ABSとは、遺伝資源の利用者が、その提供国から事前の同意を得たうえで提供国との間で契約を締結し、遺伝資源の利用によって生じた利益を提供者(先住民社会や地域社会を含む)との間で配分するという考え方・仕組みである。生物多様性条約では、遺伝資源を「現実の又は潜在的な価値を有する、遺伝の機能的な単位を有する植物、動物、微生物その他に由来する素材」と定義しており、これには地球上に存在するほぼ全ての植物・動物・微生物が含まれることになる。
ABSの目的は、上述した生物多様性条約の他の2つの目的、すなわち「生物多様性の保全」と「生物多様性の構成要素の持続可能な利用」の実現ということになっているが、多くの場合、利用側は先進国の企業や大学であり、提供側が開発途上国であることから、実際はいわゆる南北問題の構図となっている。
南北問題 : 開発途上国と先進国の間の経済的格差から生じる政治問題や経済問題の総称。先進国が北半球に、開発途上国が南半球に多く存在することからこのように呼ばれる。
ABSが注目されるきっかけとなったのが、「ニチニチソウ」の事例だ。ニチニチソウとはマダガスカル島に自生する植物であり、糖尿病の“民間治療薬”として長きにわたって用いられてきた。1950年代初頭、米国の製薬会社であるEli Lilly社の研究員がこれに着目して研究を開始した。そして同社は1961年、ニチニチソウからアルカロイド(白血球を減少させるとともに骨髄の活性化を押さえるため、抗癌薬となり得る)を抽出した。その結果、ホジキン病(リンパ組織系の癌)と小児白血病の特効薬となる二種類の医薬品が開発され、Eli Lilly社は特許を取得、年間1億8000万ドルを売り上げるまでとなった。これに対し、国連環境計画(国際連合総会の補助機関。通称UNEP:United Nations Environment Programme)の政府間委員会の場で「ニチニチソウの原産国であるマダガスカルや地域住民に対して利益を還元されないことは問題である」との問題提起があった。
このような問題を解決するべく、マダガスカルへEli Lilly社が利益配分を行なうための仕組みとして定められたのが「生物多様性条約」である。一部業界は、これを「途上国から天然資源等を採取することによる研究開発に“不測のリスク”をもたらすもの」ととらえ、途上国の天然資源等を利用した研究開発に急速に消極的となった。
3.植物エキス、精油、小麦や大豆までもが利益配分の対象に?
こうした中、利益配分の仕組みをより具体的にすることで、天然資源の研究開発におけるリスクを予見可能なものとする意義が期待されたのが「名古屋議定書」だ。しかし、残念ながら現時点においてその目的は達成できていない。
名古屋議定書は、民主党政権下の2010年、名古屋で開催されたCOP10で採択されたが、当時の議論は混迷を極めた。深夜に及んだ議論は紛糾し、もはやまとまらないとまで思われたが、当時の松本龍環境大臣が、折衷的な「議長提案」を急きょ提示し、これがわずかな修正を経て採択されるという異例の経緯を辿った。深夜の午前3時に松本大臣が高々と木槌を掲げて採択を宣言する姿はCOP10の象徴的な瞬間とも言われ、最も懸念の強かった遡及効(詳細は後述)など、いくつかの文言が盛り込まれなかったことを評価する声もあった。しかし、現実的なルールへの落としこみの段階になると、問題点の指摘が相次ぐことになる。
遡及効 : 法律等の効力が、その成立以前に遡って及ぶこと。
名古屋議定書は、遺伝資源の提供側・利用側の両方に、利益配分のための国内措置を講ずることを求めている。しかし、肝心の「遺伝資源」とは具体的に何を指すのかという点については、生物多様性条約に定められた「現実の又は潜在的な価値を有する、遺伝の機能的な単位を有する植物、動物、微生物その他に由来する素材」というもの以上に細かい定義がなく、上述のとおり、まさに「地球上に存在するほとんどの植物・動物・微生物」が含まれる状態となっている。
また、利益配分の対象となる「遺伝資源の利用」の定義についても、「生物多様性条約第2条に定義するバイオテクノロジーの応用を通じたものも含め、遺伝資源の遺伝的又は生化学的な構成に関する研究及び開発の行為」とされるにとどまり、その意味するところは曖昧である。
遺伝資源の「派生物(デリバティブ)」や「一般流通品(コモディティ)」が遺伝資源に含まれるのかどうかも不明なままである。派生物とは、名古屋議定書上「生物資源又は遺伝資源の遺伝的な発現又は代謝の結果として生ずる生化学的化合物(遺伝の機能的な単位を有していないものを含む。)であって、天然に存在するもの」とされ、具体的には植物エキスや精油などがこれに含まれるが、これらを遺伝資源として扱うかどうかは不明確である。小麦や大豆などの一般流通品(定義上は遺伝資源に含まれる)の扱いについては、規定そのものが存在しない。仮に派生物や一般流通品が遺伝資源の中に含まれるものとして利益配分の対象となれば、企業への影響は計り知れないことになる。
また、前述した「遡及効」の有無、すなわち過去(名古屋議定書に締結する前)の利用にまで遡って利益配分を求めることができるかどうかも、結局不明なままである。遡及効は、開発途上国側が議定書に盛り込むことを強く求めた項目の1つであり、「大航海時代から多くの遺伝資源を搾取され続けてきたことへの還元をすべき」と真剣に主張していた。最終的に遡及効は明記されなかったが、名古屋議定書の第10条には「事前の情報に基づく同意を与えること若しくは得ることができないものの利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分に対処するため…検討する」と、遡及効を意識した文言が残存している。もし遡及効があるとされれば、解釈によっては配分すべき利益が無限に広がることになってしまう。
さらに、利益配分のための国内措置は各国の判断で自由に定められることになっているため、遺伝資源の利用者は提供国が規定したルールに従わざるを得ない。この点も利用者にとっての予見可能性を低くしている。
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