業務執行取締役の損害賠償責任制限規定は事実上機能せず
周知のとおり、(2021年)3月1日から施行された改正会社法により、「会社補償契約(補償契約)」(会社法430条の2)および「会社役員賠償責任保険(D&O保険)」(会社法430条の3)に関する規定が新設されました。会社補償契約、D&O保険ともに今回の会社法改正の前から存在しており、特にD&O保険については既に広く普及していますが、それぞれ会社法上の位置付けがクリアになったことで、益々普及が進むことが予想されます。
会社補償契約、D&O保険と並び、役員を損害賠償責任等から防御するツールとして「責任限定契約」があります。責任限定契約とは、文字通り役員が負うべき賠償額に上限を設ける(=上限額を超えて責任を負わないようにする)ものであり、会社と役員の間で締結されますが、社外取締役や監査役などを対象としており、業務執行取締役は対象から除かれています(会社法427条)。
業務執行取締役の損害賠償責任を制限する会社法上の規定としては、①総株主の同意による責任免除(会社法424条)、②株主総会決議による責任の一部免除(同425条)、③定款規定と取締役会決議による責任の一部免除(同426条)、の3つがありますが、いずれも業務執行取締役の責任限定手段としてはほとんど機能していないのが実情です。このうち③の「定款規定と取締役会決議による責任の一部免除」は、機動的な開催が可能な取締役会決議により実施できるため、この規定に基づき定款規定を設けている会社は多いものの、会社法426条が役員等の責任の一部を免除するための条件としている「責任の原因となった事実の内容、当該役員等の職務の執行の状況その他の事情を勘案して(責任を免除することが)特に必要であると過半数の取締役(損害賠償責任を負う取締役を除く)が判断する」ことは容易ではありません。このため、少なくとも上場会社においては、立法以来全くと言ってよいほど利用されない制度と化しています。また、①の「総株主の同意による責任免除」および②の「株主総会決議による責任の一部免除」についても、役員等の責任免除のためにのみ臨時株主総会を招集するのは費用や手続の手間を考えても困難であり、だからと言って、定時株主総会まで責任の一部免除を行えないとすると、責任が免除されるかどうか不透明な状態が継続し、その結果、経営陣が委縮して積極果敢な会社経営ができなくなるといった問題があります。
こうした中、業務執行取締役の責任を制限する新たな手段として期待を集めているのが、今回の会社法改正で規定が創設された会社補償契約です。会社補償契約とは、役員が第三者から受けた損害賠償請求によって被った損害や、損害賠償等に対する防御費用(弁護士費用など)を会社が補償することを役員に対し約束するものです。会社補償契約は、業務執行取締役による過度なリスク回避行動の防止や優秀な人材の確保につながるといった点で、責任限定契約と同様の効果があると言えます。
改正会社法には明記されていない会社補償契約の内容の留意点
会社法改正により会社補償契約に関する規定が創設されたことを受け、役員との間で会社補償を締結しようとしている上場会社や、改正会社法に沿った形で会社補償契約の内容を見直そうと考えている上場会社も多いことでしょう。
改正会社法の規定に基づく会社補償契約締結上のポイントとして、①会社補償契約の内容を決定するためには取締役会の決議が必要、②通常要する防御費用の額を超える費用や、役員の悪意又は重大な過失に基づく職務遂行により第三者に対して損賠賠償責任を負うこととなった場合の損失は補償できない、③役員が自己若しくは第三者の不正の利益を図り、又は会社に損害を与える目的で職務を執行したことを知った場合、会社は役員に対して補償した防御費用の返還を請求することができる、④会社補償契約に基づく補償をした取締役及び補償を受けた取締役は、補償についての重要な事実を遅滞なく取締役会に報告しなければならない、ということが挙げられますが、これらに対し会社側からは、いくつか疑問の声が聞こえてきます。
まず、「会社から役員に対し責任追及を行う場合」の取扱いです。上述のとおり、会社補償契約とは、「役員が第三者から受けた損害賠償請求によって被った損害」や「損害賠償請求等に対する防御費用」を会社が補償することを会社が役員に約束するものですが、このうち後者の「防御費用」については、会社法上、役員が第三者から受けた損害賠償請求を受けた場合に限らず、株主代表訴訟で責任追及を受けた場合や会社から責任追及を受けた場合においても、会社補償の対象としてはいけないとは書いてありません。すなわち、支払い対象とすることが可能ということです。ただ、特に会社が役員に責任追及をしている場合、その責任追及の相手に防御費用を与えること自体が矛盾をはらんだ行動であるうえ、こうした契約の存在により役員の職務執行にモラルハザードが生じる恐れもあります。そこで、会社補償契約上、会社が役員に対して責任を追及する場合においては「役員に生ずる防御費用」は補償の対象外とすることも選択肢となるでしょう。
また、上記③のとおり改正会社法では、「役員が自己若しくは第三者の不正の利益を図り、又は会社に損害を与える目的で職務を執行したことを知った場合には、会社は役員に対して補償した費用の返還を請求することができる」としていますが、一度補償請求に応じたうえで金銭の返還請求を行うくらいなら、会社としては最初から補償を拒否することも可能であると考えられます。ただし、改正会社法上、あらかじめ「補償の拒否」ができるかどうかは明示されていないため、この点は会社補償契約に明記しておくことが望ましいでしょう。
このほか、上記①のとおり、会社補償契約の内容を決定するためには取締役会の決議が必要ですが、会社補償は利益相反やモラルハザードと隣り合わせとも言えるだけに、会社補償を実行する際の手続をより重くする必要があるのではないかとの指摘もあります。具体的な方法としては、社外取締役や弁護士などから構成される「補償委員会」を設立し、会社補償の要否、範囲、上述した防御費用の返還の要否などの判断を仰ぐということが考えられます。
以上の点も踏まえた会社補償契約書のサンプルがTMI総合法律事務所から公表されていますので、参考にするとよいでしょう。
※会社補償契約書のサンプルはこちら
改正会社法は(2021年)3月1日に施行されたばかりですので、同法に基づく会社補填契約の内容の検討はまだこれからという上場会社も少なくないと思いますが、改正会社法施行規則では、「役員等の選任議案を提出する場合で、候補者との間で、補償契約を締結しているとき又は補償契約を締結する予定があるときは、株主総会参考書類に、補償契約の内容の概要を記載しなければならない」とされています(改正会社法施行規則74条1項5号)。これを受け、2021年3月24日(水曜日)に定時株主総会を開催する12月決算のJTは、株主総会の株主招集通知に、下記のとおり新任の社外取締役について「補償契約を締結する予定である」旨を開示しています。
JTの2020年12月期に係る定時株主の招集通知11ページ参照
| 3.当社は、同氏の選任が承認された場合、同氏との間で会社法第430条の2第1項に規定する補償契約を締結する予定であり、同項第1号の費用及び同項第2号の損失を法令の定める範囲内において当社が補償することといたします。 |
ただし、会社補償契約だけでは役員または会社にとってのリスクを消すことはできません。以下ではこの点について解説します。
D&O保険の契約内容次第で会社補償契約が会社にとってのリスクに
上述のとおり、会社と役員の間で会社補償契約が締結されていれば、役員が第三者から受けた損害賠償請求によって被った損害や、損害賠償請求等に対する防御費用を会社が補償することになります。例えば役員が第三者から損害賠償請求を受け、3億円を賠償することになったとしましょう。この場合、会社補償契約に基づき、この3億円を会社が補填します。
ただ、このままでは3億円が会社にとっての「特別損失」となって終わってしまいます。これを穴埋めするのがD&O保険です。D&O保険は一般的に「役員がその業務遂行のために行った行為に起因して損害賠償請求を受けたことによって被った損害を填補する保険」などと説明されていることもあり、「役員のための保険」というイメージがありますが、役員とともに会社も被保険者となることができます。むしろ、近年は各損害保険会社とも、会社に対する補償内容をかなり充実させてきています。なぜなら、会社が負担した費用は結局役員に跳ね返って来る可能性があるからです。会社補償契約に基づき3億円を会社が補填した上記の例でも、D&O保険により、会社が補填した額の全部または一部(保険金の支払限度額による)の保険金が支払われることになります。
ただし、ここで注意しなければならないのは、保険金が支払われるのはあくまでそのD&O保険が会社補償に対応している場合に限られるということです。損害保険会社によっては会社補償への対応が「特約(会社補償特約)」となっており、しかもこの特約を付け忘れている会社が現時点で相当数あるようです。その理由として、保険代理店や保険会社側が会社補償についてよく理解しておらず、そもそも会社補償特約を付けるよう会社に提案しなかったということや、会社側もD&O保険の内容を詳細に確認しないまま契約を締結し、会社補償特約が付いていないまま現在まで放置してきたということが挙げられます。会社補償特約が付いていないD&O保険に加入している会社が会社補償を実行しても、会社による補填額(上記例で言えば3億円)については一切保険金を受け取ることはできません。今回の会社法改正を機に役員との間で会社補償契約を締結しようとしている会社は、自社のD&O保険の内容を至急確認する必要があります。
なかには、会社補填分について「保険金の支払いは不要」と考える会社もあるかもしれませんが、それが上場会社であれば、補填により会社に生じた損失について株主がどう考えるか、という問題があります。改正会社法(432条)上、第三者からの損害賠償請求に対する会社補償額に上限はありません。たとえ5億であろうと10憶であろうと、会社は補填することになります。そうなれば、会社に生じた損失を役員に負担させるよう、株主代表訴訟が提起される可能性もあります。役員との間で会社補償契約を締結するのであれば、会社補償契約に対応したD&O保険への加入は必須と言えます。
なお、会社補償が標準プランで付いているD&O保険を販売する損害保険会社も少なくありません。注意を要するのは、会社補償への対応が「特約」となっているD&O保険に加入しているケースです。また、会社補償に対応しているD&O保険でも、会社に一定の自己負担を求めるものもありますので、この点もチェックしておきたいところです。金額は100万、500万、1千万などとなっています。自己負担額を設定することには、会社にもある程度傷みを伴ってもらうことで、「どうせ保険で取り戻せるのだから、会社が補償してとけばいい」といったモラルハザードを防止する意図があります。もっとも、自己負担額が設定されている保険とされていない保険の保険料に大差はないため、会社としては自己負担額のない方に加入するのがお勧めです。ちなみに、D&O保険の支払い対象が「役員」である場合に自己負担額を設定している損害保険会社は現在はありません。
会社補償契約の普及に伴い「和解」が増える可能性
以上のとおり、役員との間で会社補償契約を締結するのであれば、会社補償に対応したD&O保険に加入することが必須となります。ただし、会社補償に対応したD&O保険であっても、保険金が支払われないケースもある点、注意が必要です。それは、「任務懈怠に悪意・重過失があった場合」および「自己若しくは第三者の不正な利益を図り、又は会社に損害を加える目的で職務を執行したものであったことが判明した場合」です。
会社法上は、「任務懈怠に悪意・重過失があった場合」には「第三者から受けた損害賠償請求によって被った損害」はその全額が会社補償の対象外となりますが(会社法432条2項3号)、「損害賠償請求等に対する防御費用」は変わらず会社補償の対象となります。一方、「自己若しくは第三者の不正な利益を図り、又は会社に損害を加える目的で職務を執行したものであったことが判明した場合」には、「第三者から受けた損害賠償請求によって被った損害」が会社補償の対象外となることはもちろん、「損害賠償請求等に対する防御費用」は役員に対し返還を求めることができます(会社法432条3項)。
会社法が、「任務懈怠に悪意・重過失があった場合」でも「損害賠償請求等に対する防御費用」については会社補償の対象としているのに対し、D&O保険では、「任務懈怠に悪意・重過失があった場合」あるいは「自己若しくは第三者の不正な利益を図り、又は会社に損害を加える目的で職務を執行したものであったことが判明した場合」のいずれかに該当すれば「第三者から受けた損害賠償請求によって被った損害」「損害賠償請求等に対する防御費用」いずれも支払い対象外としているという点で、D&O保険の方が会社法よりも厳格な取扱いをしていると言えます。
こうした中、役員が第三者から損害賠償請求を受けた場合には「和解」による決着を目指すケースが増えるのではないかと予想する専門家もいます。なぜなら、和解をすれば、通常は和解調書に「悪意」や「重過失」といった言葉は出てこないため、会社補償もD&O保険も使いやすくなるからです。逆に、判決まで至れば会社補償でもD&O保険でも損害賠償額が全く補償されない恐れがあります。
会社補償制度の創設は争訟実務にも影響を与えることになりそうです。
役員のリスクをカバーできていないD&O保険に加入している会社も多数
これまで会社補償とD&O保険の関係について解説してきましたが、会社補償への対応を抜きにしても、そもそも現在加入しているD&O保険が役員のリスクをカバーできるものとなっていないというケースが少なくありません。D&O保険は「使わないこと」を前提としているとも言えることや社内にD&O保険に詳しい人がいないことなどから、長年契約内容を見直すことなく放置してしまったという会社も多いと思います。
まず検証が必要になるのが保険金額です。上場会社であっても、保険金の支払限度額が「1億円」といった極めて低い金額に設定されているD&O保険に加入しているところが見受けられます。しかし、役員が絡む争訟は長びくケースが多く、仮に裁判になり、しかも最高裁までもつれ込むようなことがあれば、訴訟費用も相当な額に上ること予想されます。争訟の期間や訴額によっては億単位ということもあり得るでしょう。また、上場会社で役員が絡む事件や事故が発生した場合には、第三者委員会を立ち上げたり、様々な調査を実施したりするのが通常ですが、これらにも多額の費用がかかります。オリンパス事件などでも、これらの費用は役員に対して請求されています。ただ、損害保険会社によっては、何らかの事件や事故が発生した際の社内調査委員会や第三者委員会の費用などに対する保険金の支払いが「特約」となっていることもあります。また、社内調査費用はそもそもD&O保険の対象外となっているところもあります。
しかし、これまでD&O保険の保険金額について真剣に議論したという会社は少ないのが現実です。会社法上の「責任の一部免除」規定(会社法425条)に基づく賠償責任額(代表取締役:報酬等の6年分、業務執行取締役:報酬等の4年分、それ以外の取締役・監査役:報酬等の2年分)や責任限定契約(会社法427条)に基づく賠償責任額(会社が定款で定めた額の範囲内であらかじめ定めた額と報酬等の2年分のいずれか高い額)を積算した金額をD&O保険の保険金額としている会社も見受けられます。冒頭で述べたとおり会社法425条の「責任の一部免除」は、役員等の責任免除のために株主総会開催することが困難であることから事実上機能していないという問題や、「責任の一部免除」も「責任限定契約」も、役員の責任が免除あるいは限定されるのは「善意でかつ重そもそも、現実に起きている株主代表訴訟や第三者訴訟の多くは役員の過失を問うものであり、なかには役員の責任の一部免除規定や責任限定契約の対象にならないものもあります。また、仮にこれらの訴訟で役員が勝訴したとしても、弁護士費用等の防御費用は不可避であるため、D&O保険への加入は必須となります。
いずれにせよ、何らかの根拠をもって保険金額を定めている会社はまだ良い方であり、全上場会社の中でも少数派です。大半の上場会社が、「保険会社が3億円で見積もりを出してきたので」といった理由で、根拠なく保険金額を決めているのが実情です。本来であれば、自社にどういう訴訟リスクがあるのかということについていくつかシナリオを立て、どれくらいの損害賠償請求が生じる可能性があるかということを検討したうえで保険金額を決定すべきであり、ここで把握したリスクや、そのリスクが現実のものとなったとしても損失を出さない、あるいは軽減すべくどのような対策をとっているかといったことは、2020年3月決算企業の有価証券報告書から記載内容の充実が求められている「事業等のリスク」(2020年2月18日のニュース「投資家にとって魅力ある有価証券報告書作成のポイント」参照)でも開示する必要があります。最近は「自社のリスクアセスメントをやろうとしているのだが、やり方がわからない」といった声が上場会社から聞かれることが多くなりましたが、D&O保険の適正な保険金額を決めるうえで、リスクアセスメントは必須と言えるでしょう。
また、通常、D&O保険では会社から役員に対してなされた損害賠償請求は免責となっていますが、「会社訴訟担保特約」をいう特約を付けることで、役員が会社に訴えられた場合も補償対象とすることができます。会社補償は、役員が第三者から損害賠償請求を受けるケースは補償の対象としていますが、会社社から役員に対する損害賠償請求や株主代表訴訟は補償の対象外となっています。会社補償を活用しつつも、会社補償ではカバーされていない部分はD&O保険で補完しておく必要があります。
改正会社法施行規則では、会社補償契約同様、D&O保険についても開示の充実を求めており、「候補者を被保険者とする役員等賠償責任保険契約を締結しているとき又は当該役員等賠償責任保険契約を締結する予定があるときは、その役員等賠償責任保険契約の内容の概要」を株主参考書類に記載しなければなりません(改正会社法施行規則74条1項6号)。これを受け、2021年3月26日(金曜日)に定時株主総会を開催する12月決算の電通は、株主総会参考資料の「会社役員に関する事項」の中で、D&O保険の内容について開示しています。ここでは「会社訴訟」もD&O保険でカバーしていることが明らかにされています。
電通の2020年12月期に係る定時株主の招集通知44ページ7番参照
| 当社は、保険会社との間で役員賠償責任保険(D&O保険)契約を締結しております。同保険の被保険者の範囲は、当社および当社の国内子会社44社の取締役、執行役員および監査役ならびにそれらの相続人であり、填補対象とされる保険事故は、株主代表訴訟、会社訴訟、第三者訴訟などです。ただし、故意または重過失に起因する損害賠償請求については、填補されません。なお、保険料は、当該役員が職務を行う会社が全額負担をしております。 |
今後、2021年3月決算会社の定時株主総会の招集通知でもD&O保険に関する開示が多数見られるはずですが、D&O保険のカバー範囲が不十分であれば、投資家から「役員がリスクをとりにくい会社」との評価を受けてしまうことも考えられます。上場会社としては、会社補償契約の締結とともに、D&O保険の内容の検証・見直しにも早急に見直しにとりかかる必要があります。