なぜ「目指すB/S」を説明することが必要なのか?
高度経済成長期には多くの日本企業が資金不足に苦しみ、運転資金や設備投資のための資金を調達するため、経営者や財務担当者が銀行を駆け回っていました。高度経済成長期の終焉後はバブル経済に突入し、それが崩壊すると今度はバブル経済期に積み上がった負債の返済に追われます。この時代の日本企業のコーポレートファイナンスは運転資金・設備投資・負債の返済といった資金ニーズが発生すると、その都度、資金調達に奔走するという極めて受動的なものでした。そして、負債や資本の状況など企業の財政状態を示すバランスシート(B/S)についても、このような受動的な活動の結果として生じたものに過ぎないとの認識が一般的で、自らの意思で「目指すB/S」を実現しようという発想は経営陣にもほとんどありませんでした。しかし、今日では企業を取り巻く環境が大きく変化し、それでは通用しなくなりつつあります。具体的には、以下の3つの変化が起きています。
まずは「資金ニーズの変化」です。経済の成熟や少子高齢化に加えてバブル経済期の負債の返済が一巡した現在、企業の資金ニーズは大きく減退し、B/S上に手元資金が積み上がる傾向にあります。また、かつての多角化経営の名残りや生産拠点の海外移転により、B/Sの相当部分を「非中核事業の資産」や「遊休不動産」が占めているケースも散見されます。非中核事業や遊休不動産の売却や株主還元は企業の意思で行うことができます。資金調達に奔走していた時代とは異なり、現在はB/Sを自らの意思でコントロールしやすい環境になっていると言えるでしょう。
2つ目は「株主構成の変化」です。近年、金融機関を中心に持ち合い解消が進む一方で外国人株主が増加する傾向が続いており、日本企業の株主構成における主役は持ち合いを中心とする「安定株主」から「機関投資家」に移っています。機関投資家は投資先企業に対し、自らが株主として投じた資金が効率的に活用されることを望んでおり、それが必要以上の手元資金や遊休不動産として滞留したり、漫然と非中核事業を継続するために使われたりすることは望んでいません。
3つ目が「政策の変化」です。安倍政権が進める日本再興戦略は、機関投資家を中心とする株主の力を活用する姿勢を強調しており、政策の成果を図る指標として日本企業の自己資本利益率(ROE)の向上を掲げています。また、その流れの中で導入されたコーポレートガバナンス・コードは、「資本政策の基本的な方針」「収益力・資本効率等の目標」「経営資源の配分等」を株主の言葉・論理で説明することを要求しています(原則5-2)。
ROE : Return On Equity(自己資本利益率)=当期純利益÷自己資本
このように、手元資金等が積み上がり易い環境の中での株主構成及び政策の変化により、企業がその効率的な活用について説明責任を果たす必要性が急速に高まっています。そして、(手元資金等を含む)資産や負債の状況といった企業の財政状態を示すB/Sは、この説明責任を果たす上で中核的な役割を担うことになります。経営陣にとって、自社が目指すB/Sのイメージを持っておくことは必須と言えるでしょう。
A社経営陣の考え方には何が不足しているのか?
豊富な手元資金を抱えながらもROEの低迷に対して有効な対応策をとらないA社の経営陣には、「資本コスト」という考え方が不足していると言えます。
企業は株式や有利子負債によって資金(資本)を調達したうえで、その資金で生産設備や販売拠点等の様々な資産を取得・保有し、事業活動を行っています。企業に対する投融資には一定のリスクが伴うため、株主や債権者はそれに見合うリターン(収益率)を要求します。この要求リターンを上回る利益に貢献するストーリーを描けない(=説明責任を果たせない)資産を取得・保有するということは、コストを回収できない値段で商品を売るのと同じことですから、この要求リターンは企業にとってはコスト(資本コスト)に相当します。
より具体的に言うと、債権者が要求するリターンが「元利払い」であり、これが期日通りに支払われない場合には債務不履行として、債権者は法的な権限を行使することができます。一方、株主が要求するリターンは分かりにくいのですが、伊藤レポートは、国内外の投資家が株式投資において期待するリターンを基にROEについて「8%」という水準を示していますから、これが目安になるでしょう。この水準を達成できない場合には株主が要求するリターンが達成されていないことになり、株主は株主還元を要求する、あるいは株主総会で経営者の選任議案に反対票を投じる、といった手段に出ることがあります。また、当然ながら株式を売却することもあります。この場合、株価が下落し、被買収リスクが高まることになります。
A社が保有する豊富な手元資金について、資本コストを賄う(=資本コストを上回るROEの達成に貢献する)ような使途を見出すことができないのであれば、保有を継続するよりも株主還元を検討するべきでしょう。株主は還元された資金を他の企業に再投資します。A社の手元で滞留していた資金が他の企業に投じられ、効率的に活用されるようになれば、株主だけでなく、経済全体の活性化にもつながります。
A社の経営陣が意識すべきは「リスクとリターン」を踏まえた資金の配分
資本コストの考え方を経営に取り入れるためには、「コストのかかる資本(資金)を効率的に配分する」という意識が求められます。では、「資金の配分」は具体的にどのように行えばよいのでしょうか。
企業は株主や債権者から調達した資金を自社あるいはグループ内の様々な現場に配分し、現場はその資金を利用して事業を行います。このように、企業には資金を「配分する機能」と「利用する機能」がありますが、“現場主義”の傾向が強い日本企業では資金の利用に対する意識が高い一方で、資金の配分に対する意識は低い傾向があるようです。日本企業が総じて株主還元に消極的なのも、資金の配分に対する意識の弱さを示していると言えます。
資金の配分においてポイントとなるのがリスクとリターンです。リスクが高い割にリターンの低い案件に資金を配分しないようにするだけでなく、事業のリスクに合わせた資金調達を行うことも重要です。具体的には、事業が高リスクであれば資金調達は株式を中心とし、手元資金も多めに確保する必要があります。その結果、ROEの分母(自己資本)は大きくなりますが、高リスクに見合う高リターンが得られるのであれば分子(当期純利益)も大きくなるため、資本コストを上回るROEを達成できるでしょう。逆に、事業が低リスクであれば資金調達は有利子負債中心とし、手元資金や株式による調達は最小限とすることで、低リターンであっても資本コストを上回るROEを達成できます。資金の配分に対する意識は、事業リスクの精査を通じて事業・財務戦略の精緻化につながり、企業価値向上につながると考えられます。
今後、A社の経営陣には上記のような意識を高めていくことが求められます。そうすれば、事業のリスク・リターンを反映させた自己資本(株式)と有利子負債のバランスや手元資金の水準、すなわち「目指すB/S」が自ずと明らかになり、株主に対する説明責任を果たすことができるでしょう。さらにこの意識を社内・グループ内に浸透させ、具体的な取り組みにつなげていくことができれば、資金(カネ)のみならず、ヒト・モノ・情報といった経営資源全体の効率的な配分にもつながることも期待されます。