上場会社の買収にあたり、買収者が重要な情報を隠すなどして買収の対象となっている会社の株主の判断を誤らせたり、強圧的に株主を追い出すような“不適切な買収”が横行したりすれば、買収への警戒感が高まり、損失を被った株主が資本市場を去っていくことでマーケットはシュリンクしていくであろう。一方、“適切な買収”が増えれば、リソース分配の最適化が行われることにより買収された会社の企業価値は向上し、業界再編が促されたり、資本市場の健全な新陳代謝が促進されたりすることが期待される。
企業価値 : 会社の財産、収益力、安定性、効率性、成長力等株主の利益に資する会社の属性又はその程度をいい、概念的には、企業が将来にわたって生み出すキャッシュフローの割引現在価値の総和
後者のような買収の増加を目論んで経済産業省が2023年6月8日に公表したのが「企業買収における行動指針(案)」(以下、本指針案)だ。本指針案は、経営支配権が移転する買収において、株主が十分な情報を与えられ適切な判断(インフォームド・ジャッジメント)を行うことにより市場機能が健全に発揮され、企業価値の向上と株主利益の確保の双方に資する買収が活発に行われるようになることを目指して策定された。2023年8月6日までパブリックコメントを受け付けた後、確定版が公表される予定となっている。
経済産業省は、買収に関する公正なルール形成を促すことで企業価値を高めるという考え方から、これまでも下記のような指針や報告書を公表してきた。
買収 : ここでは、主に買収者が上場会社の株式を取得することでその経営支配権を取得する行為を指す。
〇経済産業省 公正なM&Aに関するルール形成について
「公正なM&Aの在り方に関する指針-企業価値の向上と株主利益の確保に向けて-」(2019年)
「近時の諸環境の変化を踏まえた買収防衛策の在り方」(2008年)
「企業価値の向上及び公正な手続き確保のための経営者による企業買収(MBO)に関する指針」(2007年)
「企業価値報告書」(2005年)
「企業価値・株主共同の利益の確保又は向上のための買収防衛策に関する指針」(2005年)
しかし、これらの指針や報告書が公表されて以降、買収防衛策の多様化、企業のガバナンスや株式保有構造の変化が著しいことから、経済産業省は「公正な買収の在り方に関する研究会」を設置。買収提案に対する評価が「買収者」と「対象会社」で分かれるケース(同意なき買収や競合的な買収等)を念頭に、買収に関する当事者の行動のあり方等についての検討を行ってきた。本指針案は同研究会での検討結果を取りまとめたものであり、買収する側・される側の両当事者にとっての予見可能性を向上させることや望ましい姿を示すこと等を通じ、企業価値を高める買収がより生じやすく(そうでないものはより生じにくく)なることを狙いとしている。なお、本指針案と2005年指針の内容が整合しない部分については、本指針案の内容が優先する(本指針案の4ページの注1)。
本指針案は大きく分けて以下の4つのパーツにより構成されている。
(2)買収提案を巡る取締役・取締役会の行動規範(第3章)
(3)買収に関する透明性の向上(第4章)
(4)買収への対応方針・対抗措置(第5章)
さらに、本指針の別紙として、下記の3つが付属している。
別紙2:強圧性に関する検討
別紙3:買収への対応方針・対抗措置(各論)
以下、4つのパーツについて、別紙との関連性を示しながら順番に見ていこう。
(1)買収一般において尊重されるべき原則(第2章)
まず本指針の第2章では、上場会社の経営支配権を取得する買収一般において尊重されるべき原則として、以下の3つが示されている。
| 第1原則:企業価値・株主共同の利益の原則 | 望ましい買収か否かは、企業価値ひいては株主共同の利益を確保し、又は向上させるかを基準に判断されるべきである。 |
| 第2原則:株主意思の原則 | 会社の経営支配権に関わる事項については、株主の合理的な意思に依拠すべきである。 |
| 第3原則:透明性の原則 | 株主の判断のために有益な情報が、買収者と対象会社から適切かつ積極的に提供されるべきである。そのために、買収者と対象会社は、買収に関連する法令の遵守等を通じ、買収に関する透明性を確保すべきである。 |
株主共同の利益 : 特定の株主の利益ではなく株主全体の利益のこと
これらの3つの原則は買収の当事者・関係者が「会社およびその株主」のために尊重すべきものであり、“適切な買収”を実現できるようにするために設けられた。換言すれば、「対象会社の経営陣が会社と株主の利益を損ねて買収を阻止しようとする」「買収に応じて株式を売るか否かの判断において株主が自らの本来の意思に反する行動を強いられる」「買収を通じて、買収者が本来享受すべきではない利益を得る」といった“不適切な買収”を発生させないための原則とも言える。
(2)買収提案を巡る取締役・取締役会の行動規範(第3章)
上記の3つの原則は適用範囲が「買収の当事者・関係者」と広めとなっているが、本指針の第3章では、対象者を「買収提案を受領した上場会社」(以下、対象会社)における取締役・取締役会に絞ったうえで、当該対象者が守るべき行動規範を時系列で解説している。
| 時点 | 取締役・取締役会が守るべき行動規範 |
| 買収提案を受領したとき | 本指針案では、対象会社の経営陣または取締役は、経営支配権を取得する旨の買収提案を受領した場合には、速やかに取締役会に付議または報告することが原則とされており、付議された取締役会では、「真摯な買収提案」に対しては「真摯な検討」をすることが基本となる。
本指針案15ページには、何をもって「真摯な買収提案」と言えるのかについての判断基準も示されている。具体的には、「買収提案についての追加的な情報を買収者から得つつ、買収後の経営方針、買収価格等の取引条件の妥当性、買収者の資力・トラックレコード・経営能力、買収の実現可能性等を中心に、企業価値の向上に資するかどうかの観点から買収の是非を検討する」とされている(本指針案の16ページ参照)。 また、「真摯な買収提案」該当性を検討する際に判断に迷う場合や、社外取締役のM&Aに関する専門性が不足している場合には、情報管理を適切に行った上で外部のアドバイザーの助言を受けることも検討されるべきとしている(本指針案の15ページ参照)。より具体的な行動については、本指針の別紙1の「取締役・取締役会の具体的な行動の在り方」が参考になる。 |
| 取締役会が買収に応じる方針を決定するとき | 取締役会が買収に応じるか否かの方針を決定する際には、会社の企業価値を向上させるか否かという観点から買収の是非を判断するとともに、株主が享受すべき利益が確保される取引条件で買収が行われることを目指して合理的な努力を行うべきである(本指針案18ページ)。
株主にとってできる限り有利な取引条件を目指した交渉とは具体的にどのようなものなのかについては、本指針案19ページに詳述されている。上述した本指針の別紙1の「取締役・取締役会の具体的な行動の在り方」には提案の検討や買収者との交渉に関する視点も示されており、参考にしたい。 取締役会が買収への対応方針を判断するのに先立ち、取締役会の独立性を補完し、取引の公正性を確保するために、独立した特別委員会を設置することがある。本指針案の第3章では、特別委員会の設置が有用であると考えられるケースや特別委員会のメンバーの構成など、特別委員会が公正性を担保するための留意点についても解説されている(本指針案の21ページ参照)。 |
真摯な買収提案 : 具体性・目的の正当性・実現可能性のある買収提案
(3)買収に関する透明性の向上(第4章)
上記「(1)買収一般において尊重されるべき原則(第2章)」のうち、上場会社の経営支配権を取得する買収一般に関する第2 原則(株主意思の原則)および第3 原則(透明性の原則)を実現するために重要となるのが、本指針の第4章だ。第4章では、 対象会社の株主の判断に資するよう、買収者および対象会社双方の観点から、買収に関する透明性を向上するため、以下の3つを求めている。
(2)対象会社による情報開示
(3)株主の意思決定を歪める行為の防止
(1)は買う側、(2)は買われる側による開示を指す。(3)としては、強圧的二段階買収などの強度な強圧性を有する買収手法を行うこと(強圧性については本指針の別紙2「強圧性に関する検討」が参考になる)のほか、不正確な情報開示や株主を誤導する情報開示・情報提供といった行為が考えられる。
強圧的二段階買収 : 最初の買付条件を有利に、二段階目の買付条件を不利に設定する、あるいは明確にしないで行う買収のことで、株主が強圧性を感じやすいと言われている。
強圧性 : 強圧性とは、対象会社の株主が買収に応じないでいる間に買収が実現すると、買収に応じた場合と比較して不利益を被ると予想されるケースでは、たとえ多くの株主が買付価格は客観的な株式の価値より低いと考えている場合であっても、株主が買収に応じるような圧力を受けるという問題である(本指針案40ページ参照)。
(4)買収への対応方針・対抗措置(第5章)
買収にあたっては、対象会社やその株主に対して必要な時間や情報が提供されずに買収が行われたり、買収者が対象会社や一般株主の犠牲と引き換えに不当な利益を得る目的で経営支配権を取得したりすることで、企業価値ひいては株主共同の利益を損なう可能性もある。そのようなリスクに備えるため、差別的な内容の新株予約権無償割当てを利用した買収への対抗措置を用いた方針(いわゆる買収防衛策。本指針案では「買収への対応方針」としている)を事前に定めておき、買収時に発動することもある。
こうした買収への対応方針に対しては内容次第で反対する機関投資家も多く、経営陣が保身を図ることを目的に利用されるのであれば訴訟に発展することもある。一方、適切に用いられるのであれば、「株主に検討のための十分な情報や時間を提供するとともに、取締役会に買収者に対する交渉力を付与し、買収者や第三者からより良い買収条件を引き出すことを通じて、株主共同の利益や透明性の確保に寄与する可能性もある」(本指針案の30ページ参照)。買収への対応方針は第5章で総論が述べられた後、別紙3で買収への対応方針・対抗措置(各論)が取りまとめられている。
※最近増えている有事導入型買収防衛策についてはWEBセミナー「買収防衛策の現状」もあわせて参照いただきたい。
有事 : 特定の者による買収の計画、提案または開始について対象会社が認識して以降の段階を指す。
時価総額が低ければ低いほど買収提案を受ける可能性は高く、PBR1倍以下の上場会社はその典型と言えるが、東京証券取引所のプライム市場およびスタンダード市場上場会社の半数以上がPBR1倍を切っており、買収リスクを抱えている。東京証券取引所は2023年3月31日に「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応について」を公表し、上場会社に対して株価を意識したPDCAサイクルの実現を要請している(当該要請については2023年4月5日のニュース『「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」における要請事項と開示時期』参照)。円安により海外企業やファンドからの買収リスクも高まっているだけに、本指針の早期確定と実務への浸透が望まれるところだ。
PBR : Price Book-value Ratio=株価純資産倍率(株価 ÷1株当たり株主資本)。株価が1株当たり純資産(BPS:Book value Per Share)の何倍まで買われているか(=1株当たり純資産の何倍の値段が付いているか)を指す。PBRが1.0を大幅に下回る場合、投資家が企業の将来性に疑問を持っていたり、減損リスクのように潜在的な資産の含み損が多額にのぼる可能性が株価に織り込まれていたりすることを示唆する。


