他企業の株式を取得して経営権を握るM&Aは、企業グループの持続的成長を加速する有力な戦略の一つとなっている。株式取得に際しては通常、取得対価が被取得企業の識別可能純資産の公正価値を上回るため、その差額が「のれん」として計上される。日本の会計基準(以下、日本基準)では、のれんを20年以内の期間で規則的に償却することが求められるのに対し、IFRS(国際会計基準)では、のれんの償却は求められず、毎期の減損テストによって価値の毀損の有無を確認することになる。
減損テスト : のれんの価値が維持されているかを毎期点検し、価値が下がったと判断されれば損失を計上する手続き。
この会計基準の差異は、株式取得後の利益の見え方に大きな影響を及ぼす。買収により取得した企業の利益は連結損益計算書に取り込まれるが、日本基準を採用する企業においては、のれん償却費の分だけ利益が圧縮される。一方、IFRSを採用する企業においては、のれんの償却が求められない以上、減損が生じない限り利益が圧縮されることはない。のれんの償却費は日本基準を採用する企業に重くのしかかるが、だからといってIFRSに移行するのも、導入コストや人材・ノウハウの不足といった制約から容易ではない。
減損 : 資産の価値が下がった場合に、その下落分を損失として計上すること。
こうした中、内閣府が、企業会計基準委員会(ASBJ)を運営する財務会計基準機構(FASF)に対し、のれんの非償却化を検討するよう水面下で要請していたことは既報のとおり(内閣府の動きについては2025年5月12日のニュース「上場企業の経営者がM&Aを躊躇する最大の理由が解消する可能性」を参照)。
さらに同年5月30日には、経済同友会、新経済連盟、日本ベンチャーキャピタル協会、日本プライベート・エクイティ協会など13団体、スタートアップ有志35社、企業経営者有志138名が連名で、FASFに対し、のれんの非償却を認めることや、償却費の計上区分の見直しを要請している。要請の内容は以下のとおり。
1. のれんの非償却を導入(選択制)
のれんの償却と併せてのれんの非償却も認める選択制を適用する。
2. のれん償却費の計上区分変更
現在、販売費及び一般管理費として営業費用に計上しているのれんの償却費を営業外費用もしくは特別損失に計上する。 |
要請を受け、ASBJが全8回にわたる公聴会を開催したところ、のれんを非償却とすることを支持する立場から以下の意見が寄せられた。
のれんの非償却の導入を支持する理由
| 概要 |
詳細 |
| M&Aの促進 |
・ M&A後の利益圧迫を嫌って、経済合理性のある M&Aを中止・断念しているケースが多く生じている。物的資産の乏しい企業を対象とする買収はのれんが大きくなりやすく、M&Aを躊躇させている。
・ M&Aのコンペでは、償却負担のある日本基準適用企業は高い価格を提示できず買い負けが生じており、国際競争力を阻害している。
・ スタートアップは純資産が極めて薄く、研究開発型では売上が当初計上されないことも多いため、買収価格との差額であるのれんが非常に大きくなりやすい。そのため、取得企業にとっては、スタートアップはのれん償却の悪影響を最も強く受けるM&Aの対象企業群であり、スタートアップに対する M&A を敬遠することが多い。
・ M&Aでプレミアムを支払うことは、成長加速投資や買収後のシナジーを想定しているはずである。有形資産から無形資産に企業価値の焦点が移ってきている中で、のれんを機械的に償却することはM&Aの目的や価値創造と整合しない。
・ のれんの償却を求める現行の会計基準は、事業者がM&Aを検討する際の足枷となっており、また、スタートアップの出口戦略の多様化を阻害している。
・ スタートアップ育成、成熟経済における企業成長及び経済的影響のため、のれんは非償却とすべきである。 |
| 企業価値評価における情報の有用性 |
・ 投資家が重視するのは会計上の償却ではなくキャッシュ・フローであり、Cash on Cashを基礎とする評価が主流である。このため、投資家は、業績分析においてのれんの償却費は無視している。
・ 定期償却により営業利益、当期純利益が低くなり、PER(株価収益率)を重視する日本の市場では、企業価値が低く評価されやすい。また、利益の圧迫が収益性の低さと誤認され、結果として資本コストを高め、企業の成長力を削いでいる。
・ スタートアップ企業に投資を行う投資家は、指標を補正する機関投資家と異なり、表面的な利益の多寡に反応しやすいため、定期償却はネガティブなノイズとなる。このように、定期償却が株価を不当に押し下げている。
・ のれんの償却費により利益が低下している状況において、昨今は表面的な数字に対してアクションを起こすロボット投資等が増えており、市場における株価形成が近視眼的・表面的になってきていると感じている。 |
| 国際的な比較可能性 |
・ IFRS会計基準と米国会計基準が非償却を採用しており、のれんの償却を求める日本基準は国際的に少数派である。このような状況において、日本基準が償却を維持することは海外投資家への説明コストを増大させている。 |
このほか、「償却期間の設定の難しさ」「経営の規律への寄与」「相対的なコスト負担」といった理由も挙がった。
償却期間の設定の難しさ : 「償却期間の決定には、恣意性が介入する。また、取得企業と監査法人との協議で決まるという側面があり、買収価格決定時においては償却年数が確定しない」等を根拠とする。
経営の規律への寄与 : 「減損テストの方が投資の成否を明確に可視化するため、経営者の説明責任を高める」等を根拠とする。
相対的なコスト負担 : 「非償却の導入や維持に係るコストは、必要なコストとして負担していく。これらはのれんの償却費ほど重要ではなく、また、IFRS導入よりも低コストである。 」を根拠とする。
一方、公聴会で聞かれたのれんの非償却の導入を支持しない理由は、概ね以下のとおりだった(後述するFASFの要請より引用。以下同じ)。
のれんの非償却の導入を支持しない理由
| 概要 |
詳細 |
| 買入のれん価値の減価及び自己創設のれんとの入替え |
・ のれんは、競争を通じて超過利益の獲得能力が時間とともに減少する。
・ のれんの償却の実務は、企業の平均的な利益獲得能力の平均回帰傾向(5年から10年程度)と整合している。
・ のれんが将来の収益力に対する期待を表しているものであると捉えると、時間の経過とともにその価値は減少すると考えることが自然である。
・ 本来、買収の「買入のれん」は時間の経過とともに価値が減少していくはずであり、償却はそれを反映するのに適している。非償却の下での減損テストの場合、事後の努力による成果や既存事業の余力の要素がシールドとなり、価値の低下が表面化しにくくなる。結果として、のれんの中身が、財務報告の目的の観点から資産に含まれないこととされている自己創設のれんへ変質してしまう。 |
| M&Aによる投資成果の適切な判定 |
・ のれんはM&Aに投じたコストの一部である。のれん償却費を期間配分し、M&Aのシナジーを得るための投資原価として売上高と対比させることにより、M&Aの投資成果を判定する役割を持つ。換言すると、のれんの償却費を計上したうえで利益を出していることが、投下資本を回収していること及びそれを超えたシナジーを生み出していることを示している。 |
| 株主価値を犠牲にするM&Aの抑制効果 |
・ のれんの償却には、毎年の償却費が利益を圧迫するという仕組みがあるおかげで、経営者は慎重な判断を行う必要が生じている。償却がなければ、失敗したM&Aのコストが表面化せず、株主価値を犠牲にする過度な投資を助長するおそれがある。 |
減損損失の認識時期が遅すぎる又は金額が少なすぎる
(too little, too late) |
・ 減損の判断に経営者の裁量が介入しやすく、報酬や任期、財務制限条項への抵触回避などの動機から、損失の計上が先送りされる傾向があることを示す実証分析の研究がある。
・ 買収した事業の業績が悪くても、会社全体や他の部門が持つ自己創設のれんと合算して減損テストが行われることで、のれんの価値下落が覆い隠され、バランスシートに反映されない状況が生じる。このように、非償却モデルが依存する減損テストには、損失の認識が遅いという構造的な問題がある。
・ 非償却にはtoo little, too lateの問題があり、また、業績悪化時に減損により損失が雪だるま式に増え、経営の健全性に課題が生じることが懸念される。 |
| 貸借対照表の有用性に関する課題 |
・ 非償却の会計処理の下では、投資回収が終わったはずの買収コストまで資産として残り続け、のれん残高が自己資本や総資産に対して異常に大きく積み上がる状況を招くおそれがある。このようにのれんが減らないことにより、ROA(総資産利益率)などの資産効率指標が改善されず、また格付分析においても自己資本比率の信頼性が低下するなど、クレジット分析において伝統的な指標の有効性が失われる。 |
| 個人投資家の保護 |
・ 非償却とすることで業績をよく見せたいという思惑があるとすれば、投資家保護の観点から懸念がある。 |
| 政策目的による会計基準の改正に対する反対 |
・ スタートアップ企業の取引の活性化に反対するものではないが、その手段が会計基準の変更という形になっていることに疑念を持っている。会計基準は企業経営の実態を適切に反映するために設定されるべきものであり、政策的な目的のための手段として会計基準の変更を行うべきではない。 |
のれんの実務に詳しくないと分かりにくいのが、表中の赤字で示した「非償却の下での減損テストでは、事後的な経営努力や既存事業の余力がシールドとなり、価値の低下が表面化しにくい」との指摘である。
買収した事業が自律的に成長するケースは少なく、放置すれば顧客の喪失や従業員の離職により、通常は価値が低下していく。こうした事態を回避するためには、人員の補充に加え、採算の良い他事業からの資金投入による設備更新や、他部門による営業支援が不可欠となる。
このような「事後的な経営努力」によって、事業全体としては、あたかも価値が維持されているかのような利益水準が保たれることがある。さらに、減損判定の単位に含まれる他事業の貢献(既存事業の余力)が加わることで、この傾向はいっそう強まる。
減損判定の単位 : IFRSではCGU(Cash-Generating Unit:資金生成単位)、または複数のCGUを組み合わせたグループ単位で減損テストを行う。このため、CGUのくくり方次第で、買収前から存在していた他の事業も合算したうえで減損テストを行うケースは少なくない。
そうなれば、財務諸表作成者や監査人にとっては、どの時点で価値の低下を認識すべきかが見えにくい。これは、実務家の間で「IFRSでも減損テストがあるから問題はない」との見方に賛同が広がりにくい要因となっている。このほか、のれんの非償却の導入を支持しない理由として、「のれんの非償却がM&Aの促進につながることを示す証拠の欠如」「コストの増加」「経営の規律への寄与」「国際的な会計基準への対応のスタンス」といった意見も寄せられた。
国際的な会計基準への対応のスタンス : 「国際会計基準との整合性を図っていく考え方があることは理解するものの、昨今の国際会計基準の動きは必ずしも正しいとは思えないものがある。このような状況においては、単純に国際会計基準に合わせていくべきものではない」を根拠とする。
「のれんの償却と非償却の選択制」を巡っては、支持する理由として「M&Aの促進」等、支持しない理由として「比較可能性の低下」等が挙がった。一方、「のれん償却費計上区分の変更(のれん償却費を販売費及び一般管理費から営業外費用又は特別損失とする案)」については、のれんの償却費は営業費用としての性質があるとして、反対意見が多数となっている。
各論点への賛否についての理由・見解はおおむね出そろったものの、2026年3月13日に開催された財務会計基準機構(FASF)の企業会計基準諮問会議第56回会合では結論を出すには至らなかった。その理由として、「本テーマについて幅広い利害関係者から関心が寄せられていることを踏まえ慎重を期してプロセスを進める必要がある」ことが示された。
そこで、FASFは、これまでに収集した情報をウェブサイトで公表するとともに、それに追加すべきものがないかどうかについて、2026年4月1日付で情報要請を行っている(情報要請の詳細はこちら)。情報要請では、これまでの公聴会に寄せられた理由以外の理由や観点がある場合には、それを寄せるよう求めている。
情報要請の結果、これまでの議論を覆すような情報等が寄せられれば話は別だが、現時点で寄せられた情報等を企業会計基準諮問会議の事務局が分析したところ、以下の見通しとなっている。
・日本基準内での非償却と償却の選択制については、比較可能性の観点から懸念が多く聞かれており、採用は難しい。
・現時点では、いわゆる概念フレームワークにおける質的特性の観点で、のれんの非償却を導入する方が有用であるとの十分な根拠は示されていないと考えられる。したがって、仮にのれんの非償却の導入を検討する場合、その積極的な理由は国際的な整合性の観点のみになる。
概念フレームワーク : 会計のルール(IFRSなど)を作る際の憲法のようなもの
質的特性 : 「投資家が将来を予測するのに役立つか?」「企業の経済的実態を正しく表しているか?」といった価値判断を指す。
こうした企業会計基準諮問会議のネガティブな動きをけん制するため、経済同友会は2026年3月3日に「のれん非償却に関する意見」を公表し、次の2つの対案を公表している。
経済同友会が示した2つの対案
(1)グローバルな潮流に機動的に対応していくために、企業会計基準諮問会議における審議・決定プロセスを全会一致のコンセンサスベースから多数決に見直すべき
(2)非償却の早期導入が叶わない場合には、政府主導による新たな会計基準の策定を検討すべき |
(1)は企業会計基準諮問会議の運営方法に対する注文であり、(2)はASBJに頼らず、政府主導で会計基準を設定することを提案するものだ。いずれも、のれんの非償却に向けた会計基準改正に腰が重い企業会計基準諮問会議に対する経済界からの強い不満の現れと言える。
議論が政治色を帯びる中、「M&A巧者」と評価されていたニデック(IFRS適用企業)で、のれんの減損回避を目的とした不適切会計が発覚したこともあり、「のれんの非償却は粉飾を誘発しかねない」とする従来からの慎重論が再び勢いを増している。FASFによる情報要請のコメント期限は2026年6月5日であり、その後に開催される企業会計基準諮問会議が、のれんの非償却の行方を左右する重要な節目となろう。